森ミステリィの不思議(森ミス考察のすすめ)

森博嗣作品について述べるときに、しばしば使われる表現として、「わからなかった」だとか、「理解できなかった」というものがあります。

 

これは、否定的な意味で使われることもありますが、「理解できなかったけど、圧倒された」のように、肯定的に使われることも少なくありません。数えたことはないので、正確なところは知りませんが、『赤目姫の潮解』の感想をネットで調べれば、5割は「わからない」やそれに類する表現が使われているのではないでしょうか。

 

この記事では、「わからない」、「不思議」ということが、森ミスでどう扱われているか考えてみたいと思います。

 

微ネタバレ注意!!

トリックなどについては言及していませんが、S&Mシリーズは既読であったほうが良いです。『実験的経験』、『赤目姫の潮解』についても結構触れてはいますが、具体的なネタバレはほぼありません(雰囲気がわかるのも嫌だという人は、読まないことをお勧めします)。

 

 

 

 

この記事を書こうと思ったきっかけは、「XシリーズとXXシリーズが全く理解できてません。そして、理解出来ないが故に再読も出来てません」というツイートを見かけたからです。私は、このツイートを読んで、この人がなぜXシリーズやXXシリーズを理解できないと感じているのか、そこを不思議に思いました。

 

この方が何を、どうして、理解できていないのかは、知るよしもありません。

 

しかし、その方が理解できなかったということを「私が不思議に思った」ということからなら、「不思議」について考えることができるのではないか、と思いました。

 

比較対象として、『赤目姫の潮解』についての感想を考えてみましょう。

例えば、『赤目姫の潮解』に対して、「意味わからんけど、すごかった」という感想があったとします。私はこの感想には、先ほどのツイートに対して感じた引っ掛かりを感じません。これは、当然、作品の内容が大きく異なることに起因しています。「リアリティ」を意識して書かれたX(X)シリーズに対して、『赤目姫の潮解』は、「普通」の小説ではありません。『赤目姫の潮解』は、「小説」というカテゴリィにおいて、「周辺的」です。それまで持っていた認知的枠組みから外れた『赤目姫の潮解』を読むとき、私たちは驚き、今まで持っていた枠組みの修正を迫られることさえありえます。

 

しかし、これは赤目姫が、「不思議」であることの説明には、まだなっていないような気がします。

 

先日、筒井康隆の『残像に口紅を』という小説を読みました。この物語では、物語が進むにつれて、本文で使うことのできる文字が減っていきます。最後の方のクライマックスでは、ほんの数文字しか使える文字がありません。これは、普通の小説にはない性質です。『残像に口紅を』もまた、周辺的な小説であると言えるでしょう。

 

しかし、私はこの小説を読んで、不思議に感じることはありませんでした。

「なぜ使える文字が減るのか?」というふうに不思議に思う人もいるかもしれませんが、それは、筒井康隆がそういう設定で物語を書こうと思ったからです。もちろん、どうしてそのような設定を用いることを思いついたのかを問うこともできるでしょう。しかし、これは「不思議」とは違う気がします。ファンタジィを読んでいるときに、どうして魔法が使えるのだろう?」と疑問に思う人はあまりいません。単にそういう設定だというだけで、そこに「不思議」はありません。架空は架空なのだから、何でもありです。

 

しかし、『赤目姫の潮解』を読んで「不思議」に思うのは、自然なことのように思えます。つまり、「普通」ではない小説の中でも、『赤目姫の潮解』はさらに特異な点があるということになります。他の幻想小説に割り振られる小説を読んで感じる漠然とした感覚と、『赤目姫の潮解』を読んで感じる「不思議」。実は、これらにも大きな違いがあります。

 

『赤目姫の潮解』の特異性は、『赤目姫の潮解』が、四季サーガの中の一作であるということです。大抵の読者は、『赤目姫の潮解』の前に、『すべてがFになる』や、『女王の百年密室』、『迷宮百年の睡魔』などを読んでいることかと思います。『赤目姫の潮解』の前作とも言えるこれらの作品たちは、多少非現実的なところこそあれど、現実には絶対にありえないほどのことは起きていません。そこから、現実では起こりえないことが立て続けに起こる『赤目姫の潮解』に進むわけですから、読者はそのギャップや飛躍に困惑する訳です。正しい言葉遣いなのかは分かりませんが、リアリティライン(リアリティの程度)が急激に変化しているとも言えるかもしれません。

 

赤目姫を読んでいて感じる「不思議」、例えば、「どうしてこんなことが起こりうるのだろう?」という疑問は、私たちが赤目姫を読む前から持っている、「百年シリーズ第三作」として予測されるイメージから、あまりにもかけ離れているにも関わらず、それでも「百年シリーズ第三作」であるということに由来しているのです。

 

私たちは、『赤目姫の潮解』を読む前に、なんらかの仮説(予測)を持っています。

 

例えば、

 

ミチルとロイディが登場するだろう。

ジャンルはSFミステリィだろう。

 

など、私たちはシリーズものである『赤目姫の潮解』を一文字も読まない時から、さまざまな予測や仮説を立てることができるのです。そして、それらの仮説が、実際の小説からは離れていると気付いたとき、初めて私たちは「不思議」に思うのです。

 

まとめると、このように言えます。

 

「不思議」に思うことは、仮説や予測とのギャップを認識すること。

 

『赤目姫の潮解』は、他のシリーズをもとに構築される仮説と、実際の本編に大きなギャップがある。

 

 

 

 

これらの考え方は、森博嗣作品で実際に語られていることと一致しています。

 

 

質問は?  あ、えっと、空はどうして青いんですか?  どうしてそんなことをきくのかね?  いえ、どうしてって言われても……。なんとなく、質問がしたかったからですけど。  そういう質問には答えることができない。答がない、といった方が近いね。このまえ読んだ、ツッチーヤ先生の哲学の本に書いてあった。ようするに、質問が悪い。質問になっていない、という意味です。(『実験的経験』より)

 

なぜ質問になっていないかと言うと、質問者が、「どのように疑問に思っているか」説明されていないからです。これは、仮説を立てているかどうか、に対応します。

 

 

「地球の周囲には宇宙空間が広がっていて、そこは青くない。無色というか光がないのでほとんどは黒く見える。地球を取り巻いている空気も無色だ。だったら、空は真っ黒でなければならないはず」という仮説を持っている人が、その仮説と実際の観測とのギャップを感じたときに「不思議」が生まれるわけですね。

 

『実験的経験』でも言及されている土屋賢二の『あたらしい哲学入門』の議論も少し確認しておきます。子供が、「空はなぜ青いの?」と聞く時、子供は仮説を立てているわけではありません。ただ、何でもかんでも「不思議がっている」だけなのです。この質問に対しては、いかに科学的に正確な答えをしても、子供は満足しないでしょう。子供が尋ねる疑問は、必ずしも適切な(つまり答えのある)、問題になっていないのです。

 

仮説を立てて、実際とギャップがあるときに、私たちは「不思議」に思います。そのギャップを埋めるため、私たちは新たな仮説を考え出していきます。その仮説が実際と、より整合性を持った時、思考は前進しています。例えば、赤目姫のリアリティラインが唐突に変化する理由を説明する不思議を説明するための仮説として、考えたのが、以前投稿した『共通思考は真賀田四季の夢を見るか?』です。

 

では、より良い仮説を立てるとどうなるのでしょうか?  新しい「不思議」を見つけることができるようになります。

 

記号を覚え、数式を組み立てることによって、僕らは大好きだった不思議を排除する。何故だろう? そうしないと、新しい不思議が見つからないからさ。探し回って、たまに少し素敵な不思議を見つけては、また、そいつらを一つずつ消していくんだ。もっともっと凄い不思議に出会えると信じてね……。(『幻惑の死と使徒』より)

 

 

仮説を立て、予測して、現実とのギャップを修正して新たな仮説を立てる。これは科学という営みの根本です。このサイクルを繰り返すほど、仮説は現実をより広範に説明するようになり、その結果、理論は複雑になります。そのため生まれてくる謎も、どんどん難しいものになります。科学は不思議を排除してしまうことはありません。科学や学問という営みは「もっと凄い不思議」にいたるための道筋なのです。

 

このサイクルは、科学の大原則でもありますが、同時に私たちが日常の中でしている行為でもあります(科学については、他者による検証、定量的な評価だとか、もちろん他にも多くの必須の要素があります。森博嗣著『科学的とはどういう意味か』を参照してください)。

 

どうやったら、売り上げが上がるのか、仮説を立てる。仮説をもとに策を立て、実行に移してみて、売り上げが実際に上がったかどうか確認する。予想より上がり幅が小さければ別の仮説を立てる。有効ならどうすればさらに売り上げを伸ばせるか考える。

 

例えば、商売をする人であれば、こんな行為は普通に行っているはずです。専業主婦(夫)や受験生、どんな仕事や役割であれ、何か課題を解決していく上でそれをより簡単に解決する方法を模索するものです。

 

このサイクルは、まさに、人間の知性の特性であると言ってもいいかもしれません。

 

先ほど、子供の疑問は、仮説に基づかないため、「問題」として不適である場合があると確認しました。しかし、子供もまた、この仮説→検証→新たな仮説に似たサイクルを行っていることがわかっているそうです。細かい内容は省くので、今井むつみ、秋田喜美著『言語の本質』を参照していただきたいのですが、少しだけ関わりのある部分について説明します。 

 

人間の乳幼児は、他の動物とは異なり、対称性バイアスを持っているそうです。これは、「AならばBである」ということから、「BならばAである」を引き出すバイアスのことです。「逆は必ずしも真ならず」というくらいで、これは論理的には間違っています。「正三角形は三角形である」は正しい主張ですが、「三角形は正三角形である」は明らかに間違っていますね。しかし赤ちゃんはこのバイアスを持っているからこそ、言語を習得することが可能なのです。

 

クワインという哲学者が考えた、「ガヴァガイ問題」という思考実験があります。あなたはフィールド言語学者で、ある未知の社会で未知の言語に遭遇したとしましょう。ここである人が、ウサギが横切っていくところを指差して、「ガヴァガイ!」と叫んだとします。単純に考えれば「ウサギ」を表す単語である気がしますが、実はそうとは限りません。その人は、「小動物」という意味で言ったのかもしれないし、「見ろ!」という意味で言ったかもしれません。論理的には、この「ガヴァガイ」が何を意味するのか、決定することはできないのです。赤ちゃんは、母国語に初めて触れる時、この「ガヴァガイ問題」を実際に解決しなくてはなりません。論理的には解決できない問題を解決しているのが、赤ちゃんのバイアスであるということです(乳幼児は、対象性バイアス以外にも様々なバイアスを持っています)。

 

 

このバイアスが、最初の「仮説」として、スタートします。この決め付け、バイアスから、赤ちゃんは間違えながらも言語を話そうと試み、間違えるたびに、自分の知識を修正しながら、新たな推論をたて、仮説を構築します。この仮説をもとに、言語を話し、また修正していくのです(このサイクルを、『言語の本質』では、アブダクション推論と呼んでいます)。

 

有名なヘレン・ケラーの例を、『幻惑の死と使徒』から引用しておきましょう。

 

ヘレン・ケラーを知っているだろう?  三重苦の。もの心がつく以前から盲目で耳も聞こえなかった人が、何を最初に理解したと思う? (中略)

それは、ものには名前がある、という概念なんだよ。すべてのものに名前がある、ということにさえ気づけば、あとは簡単なんだ。ものに名前があることを知っている、あるいは、ものに名前をつけて認識するのは、地球上では人類だけだ(『幻惑の死と使徒』より)

 

 

 

ヘレン・ケラーは、ある時、水をかけられながら、手のひらに書かれたwaterの綴りが、水を表す名前であり、すべてのものに名前があるという洞察を得たと言います。これは、論理的な推論ではありません。水の後に与えられた皮膚の刺激が水を表す名前であるとする根拠はないのです。しかし、ヘレン・ケラーは、この仮説をもとに、一気に世界を拡張させました。

 

非論理的な思考が、創造的でありうる、ということは、森先生も述べています。『つぼねのカトリーヌ』では、矛盾した思考の大切さについて語った上で、「不思議からいろいろなものが生まれる。まず、不思議を探すことが重要になる」とも述べています。『笑わない数学者』で犀川が、「学生が、僕に質問をするね。その質問の内容で、成績をつけてるんだ」と述べていることも、関連しているでしょう。謎を見つけることが、一番難しいところなのです。

 

この新しい知識を創造しながら、言語を習得していくサイクルは、人間に特有のものであるようです。そもそも、人間以外の動物のチンパンジーなどでは対称性バイアスがほとんど確認されないそうです。この事実は、四季の発言ともつながっています。

 

「よくご存じですこと。でも、その三つの疑問に答えられることに、価値があるわけではありません。ただ、その三つの疑問を問うことに価値がある」 「そうでしょうね」犀川は頷いた。「価値がある、という言葉の本質が、それです」 「リカーシブ・ファンクションね」四季は言った。「そう、全部、それと同じなの。外へ外へと向かえば、最後は中心に戻ってしまう。だからといって、諦めて、動くことをやめてしまうと、その瞬間に消えてしまうのです。それが生命の定義。本当に、なんて退屈な循環なのでしょう、生きているって」(『有限と微小のパン』より)

 

 

ここでの「生命」は機械に対して人間ということなのだと思いますが、四季はまさしく、人間の思考は、仮説の創造と検証のサイクルであるのだということを述べているのではないでしょうか? デカルトの議論と少し似ているところもあります。

リカーシブ・ファンクションとは、関数の定義に、自身を含むようなもののことです。「人間の定義は、なんだろう?」 「生きているとはなんだろう?」このような「不思議」を感じるのは、私たちが人間であり、生きているからです。

 

 

森博嗣作品のファンは、その「わからなさ」を含めて楽しんでいる方が多いように見受けられます。しかし、「わからないのが最高!」で終わるのも、どこかもったいないのかもしれません(もちろん、それはそれで楽しい読み方ですが)。漠然とした不思議があれば、その背景にある仮説が何か考え、訂正していく。そのように、どんどん考察を深めれば、まさに四季の発言を実践することもできて、森ミスをまた違った形で楽しめると思います*1

 

この自己参照的な生命の定義、つまり、「リカーシブ・ファンクション」は、『有限と微小のパン』で四季も言及している通りだ。「どうして、どうして、それを言うのが人間」であるように、「疑問を問うことに価値がある」のであり、その答えが正しいかどうかは重要ではない。

「私には正しい、貴方には正しくない」、「正しい、なんて概念はその程度のこと」

本稿のタイトルが疑問文である理由が、ここにある。

(『共通思考は真賀田四季の夢を見るか?』最後の注釈)

 

 

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*1:私がいろいろな森ミス考察を読みたいだけなんですけどね!