共通思考は真賀田四季の夢を見るか?
※複数の森博嗣作品および夢野久作作品の重大なネタバレを含みます。
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森博嗣の百年シリーズ第3作『赤目姫の潮解』は、百年シリーズの中でも、そして、S&Mシリーズから始まる真賀田四季を中心としたサーガ(以降「四季サーガ」と呼ぶ)の中でも、極めて異色な作品だ。
その「異色さ」は一度読めば、すぐにわかる。例えば、シリーズ前2作の主人公サエバ・ミチルはじめ、既存シリーズのキャラクタが登場しない*1ことや、シリーズや四季サーガを通しての位置付けや時系列がはっきりとしないこと、非直線的な時間や視点の混線を含む、現実世界ではあり得ない描写が頻繁に現れることなどは、他の森作品ではありえない(しかし、それでいて四季サーガの中で確固たる存在感を持ち、どこか連続性も保っているというところも本作の魅力の一つだということは、賛同を得られると思う)。
この文章を書いている現在は、『オメガ城の惨劇』が最新刊である、2023年の1月である。百年シリーズからさらに百年ほど後を舞台にしたWシリーズが完結し、その続編のWWシリーズが『リアルの私はどこにいる?』まで刊行されている今、『赤目姫の潮解』を四季サーガの中で位置付けるというのが目的である。
本稿の結論を書くと、「『赤目姫の潮解』は、森博嗣版『ドグラ・マグラ』であり、まだ生まれていない共通思考という胎児の夢である」というものである。
1 ドグラ・マグラ
「…………ブウウ──────ンンン──────ンンンン………………」(『ドグラ・マグラ』より*2)
『ドグラ・マグラ』は1935年に夢野久作によって刊行された小説で、日本三大奇書に数えられる。草稿などを含め、何度も書き換えられており、構想、執筆に10年とも20年とも言われる。様々な出版社から出版されているが、今回の引用やページ数は、角川文庫版に基づく。
『赤目姫の潮解』との類似点を指摘する前に、まずは『ドグラ・マグラ』のあらすじと基本的な要素を確認しよう。『ドグラ・マグラ』は、自我亡失症(記憶喪失)の主人公が、柱時計の音とともに、精神病棟で目を覚ます冒頭から始まる。主人公は、記憶を取り戻し、彼が鍵を握るという事件の真相を明らかにするために、さまざまな記録を読んでいくことになる。記録は、『キチガイ地獄外道祭文』、『地球表面は狂人の一大解放治療場』『絶対探偵小説 脳髄は物を考える処に非ず』『胎児の夢』『空前絶後の遺言書』および幾つかの新聞記事などからなるのだが、記録の中で別の記録が差し込まれるなど、非常に混乱させる構造になっている。いくつか本稿で重要となる要素を挙げておく。また、必要に応じて後の項でも、『ドグラ・マグラ』の内容について確認する。
1-1 『胎児の夢』
『胎児の夢』は、私たち読者が、主人公とともに読んでいくことになる記録の一つであり、精神医学に関する論文である。この論文は、作中の主要人物の一人、正木教授によって書かれた。
人間の胎児は、母の胎内に居る十箇月の間に一つの夢を見ている。 その夢は、胎児自身が主役となって演出するところの「万有進化の実況」とも題すべき、数億年、ないし、数百億年に亘るであろう恐るべき長尺の連続映画のようなものである。すなわちその映画は、胎児自身の最古の祖先となっている、元始の単細胞式微生物の生活状態から初まっていて、引き続いてその主人公たる単細胞が、次第次第に人間の姿……すなわち胎児自身の姿にまで進化して来る間の想像も及ばぬ長い長い年月に亘る間に、悩まされて来た驚心、駭目すべき天変地妖、または自然淘汰、生存競争から受けて来た息も吐かれぬ災難、迫害、辛苦、艱難に関する体験を、胎児自身の直接、現在の主観として、さながらに描き現わして来るところの、一つの素晴しい、想像を超越した怪奇映画である。(『ドグラ・マグラ 上』p233)
「胎児の夢」を要約すれば、胎児は胎内で、自分の祖先の記憶を主観で再体験しているということだ*3。『胎児の夢』はヘッケルの反復説*4を元にしている。付け加えておくと、『ドグラ・マグラ』は、以下に引用する「巻頭歌」から始まることからも、「胎児の夢」モチーフの重要性が分かるだろう。
胎児よ
胎児よ
何故躍る
母親の心がわかって
おそろしいのか(『ドグラ・マグラ』)
胎児が母親(この「母親」は先祖の提喩である)の心理を再体験するというモチーフは、本作において主要なものであり、『ドグラ・マグラ』という物語自体が、いまだ生まれていない胎児の見ている夢にすぎないという解釈が可能であることも特筆すべきだろう。また、この「胎児の夢」モチーフは、『ドグラ・マグラ』内で重要なだけでなく、後に触れるように、森作品の中でもたびたび登場している。
「胎児の夢」と「脳髄は物を考える処に非ず」の二つの考え方を組み合わせることで、作中で重要な考えである、「心理遺伝」が導かれる。
1-2 物語の構造
1-2-1 物語の「円環的」構造
『ドグラ・マグラ』は巻頭歌の後、以下のように始まる。
…………ブウウ──────ンンン──────ンンンン………………。 私がウスウスと眼を覚ました時、こうした蜜蜂の唸るような音は、まだ、その弾力の深い余韻を、私の耳の穴の中にハッキリと引き残していた。(『ドグラ・マグラ 上』p5)
そして、本文の最後もまた、「……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………」という柱時計の音で締め括られており、『ドグラ・マグラ』の物語は、冒頭と終わりが重なる「円環的」構造であることが示唆される。
しかし、伊藤里和が、『夢想の深淵 夢野久作論』(沖積舎)において指摘している通り、この二つの文章をよく見比べると、「ン」の個数や、「…」か「─」など微妙に異なっており、実は『ドグラ・マグラ』は、単なるループではないという読解も可能である。
1-2-2 物語の「メタ的」構造
『ドグラ・マグラ』作中で、主人公は、『ドグラ・マグラ』という同名の小説を発見する。以下、主人公が作中で発見した『ドグラ・マグラ』を、「作中『ドグラ・マグラ』」と呼ぶ。
それは五寸ぐらいの高さに積み重ねてある原稿紙の綴込で、かなり大勢の人が読んだものらしく、上の方の数枚は破れ穢れてボロボロになりかけている。硝子の破れ目から怪我をしないように、手を突込んで、注意して調べてみると、全部で五冊に別れていて、その第一頁ごとに赤インキの一頁大の亜剌比亜数字で、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴと番号が打ってある。その一番上の一冊の半分千切れた第一頁をめくってみると何かしら和歌みたようなものがノート式の赤インキ片仮名マジリで横書にしてある。
巻頭歌
胎児よ胎児よ何故躍る 母親の
心がわかっておそろしいのか
その次のページに黒インキのゴジック体で『ドグラ・マグラ』と標題が書いてあるが、作者の名前は無い。 一番最初の第一行が……ブウウ──ンンン……ンンンン……という片仮名の行列から初まっているようであるが、最終の一行が、やはり……ブウウ──ンンン……ンンンン……という同じ片仮名の行列で終っているところを見ると、全部一続きの小説みたような物ではないかと思われる。何となく人を馬鹿にしたような、キチガイジミた感じのする大部の原稿である。「……これは何ですか先生……このドグラ・マグラというのは……*5」 (『ドグラ・マグラ 上』pp87~88)
以上の描写から、作中『ドグラ・マグラ』は、一見『ドグラ・マグラ』と同一であるように思われる。この作中『ドグラ・マグラ』が登場するのは物語の前半であり、結末が早々に予言されていることになる。
しかし、注意深くみると、作中『ドグラ・マグラ』の第一文と『ドグラ・マグラ』の第一文は微妙に異なっているのがわかる。最終文もそれぞれ異なる(作中『ドグラ・マグラ』の最初の文と最後の文は等しい。こちらは完全な円環構造をなしているのかもしれない)。作中『ドグラ・マグラ』は、一見、『ドグラ・マグラ』と同一だが、別の作品なのだ。また、私たちが読む『ドグラ・マグラ』は、(少なくとも角川文庫版は)巻頭歌が縦書きだし、著者には夢野久作と書いてある点も異なる*6。
また、これについては『ドグラ・マグラ』作中において明言されるわけではないが、胎児の夢というモチーフと組み合わせて考えると、胎児の夢についても、夢から覚める夢のようにメタ構造を盛り込むこともできるのではないか。母親が胎児の時に見ていた「胎児の夢」を、子供の胎児が夢に見る、ということになり、『ドグラ・マグラ』はこのようなメタ構造を含んでいる可能性もある。
1-3 時間
物語が、柱時計で始まり、柱時計で終わることからも、『ドグラ・マグラ』において、「時間」の概念が非常に重要であることがわかる。作中でも、心理的時間について、現実の時間に対比される形で述べられている。
……また、時間というものについても同様の事がいえる。……中央気象台や、吾々の持っている時計の針や、地球、太陽の自転、公転なぞによって示されて行く時間というものは真実の時間ではない。唯物科学が勝手に製作し出した人工の時間である。錯覚の時間、インチキの時間である。……真実の時間というものは、そんな窮屈な、寸法で計られるような固苦しいものではない。モットモット変通自在な、玄怪不可思議なものである……という事実が実際に首肯出来れば、同時に「胎児の夢」の実在が、首肯出来るはずである。(『ドグラ・マグラ 上』p245)
夢の正体が、細胞の発育、分裂、増殖に伴う、細胞自身の意識内容の脳髄に対する反映である事は以上説明する通りであるが、次に夢の内容において感ずる時間と、実際の時間とが一致しない理由を明かにする。(中略) 手近い例を挙ぐれば、同じ時計で計った一時間でも、面白い小説を読んでいる一時間と、停車場でボンヤリ汽車を待っている一時間との間には驚くべき長さの相違がある。(中略)真実の時間というものは、普通に考えられている人工の時間とは全く別物である。むしろ太陽、地球、その他の天体の運行、または時計の針の廻転なぞとは全然無関係のままに、ありとあらゆる無量無辺の生命の、個々別々の感覚に対して、同時に個々別々に、無限の伸縮自在さを以て静止し、同時に流れているもの……という事が、ここにおいて理解されるのである。 次に、地上に存在している生命の長さを比較してみると、何百年の間、茂り栄える植物や、百年以上生きる大動物から、何分、何秒の間に生れかわり死にかわる微生物まであるが、大体において、形の小さい者ほど寿命が短かいようである。細胞もまた同様で、人体各別の細胞の中で寿命の長いものと短かいものとの平均を取って、人間全体の生命の長さに比較してみると、国家の生命と個人の生命ほどの相違があるものと考え得る。しかし、それらの長い、または短かい色々の細胞の生命が、主観的に感ずる一生涯の長さは同じ事で、その生れて死ぬまでの間が、人工の時間で計って一分間であろうが百年であろうが、そんな事には関係しない。生まれて、成長して、生殖し老衰して、死滅して行きつつ感ずる実際の時間の長さは、どれも、これも同じ一生涯の長さに相違ないのである。(同作 pp252~255)
唯物科学がもたらした「人工の時間」と、心理的な「真実の時間」も違いは、後述するように、共通思考の「クロック」や、『迷宮百年の睡魔』の事件の真相とも繋がる。
1-4 主人公の「候補」
前述の通り、『ドグラ・マグラ』は主人公が誰かというのが主要な謎である。この主人公の候補は作中で何人かいる。まず一人目が、主人公がこれからその記録を読んでいく、事件の中心人物、呉一郎である。彼は、いとこで許婚の呉モヨ子を夢中遊行状態で殺害した後、九州大学病院に収容された。さらに、主人公の肉体が呉一郎であったとしても、人格は別人であるという可能性もある。その場合の可能性は二種類に分類される。一つが呉一郎の先祖で、かつて妻を殺害し、事件の引き金になる絵巻物を作成した呉青秀の人格が、心理遺伝により呉一郎に発現したというもので、二つ目は、呉青秀とはなんの関係もない人格が、呉一郎に新たに発現したというものである。また、呉一郎の双子の兄弟、あるいは、呉一郎にそっくりな赤の他人であるという可能性も示唆される。次に、九州大学病院に収容され、正木教授の講義に出席しているアンポンタン・ポカン氏や、また、作中『ドグラ・マグラ』の作者も主人公と同一人物である可能性がある。最もラディカルな説として、主人公は胎児であり、夢を見ているだけという可能性や、主人公は、一細胞にすぎないという可能性もある。
以上のように『ドグラ・マグラ』の主人公は誰かについては、多数の可能性があり、何が正解なのか、はっきりした答えは出ていない。
2 森博嗣と夢野久作
「『ドグラ・マグラ』って小説ご存じですか?」(『すべてがFになる』より)
『ドグラ・マグラ』と『赤目姫の潮解』の類似点について見ていく前に、この二作品を比較することが妥当であるとする根拠として、森博嗣が夢野久作や、『ドグラ・マグラ』について作品の内外でどのような言及を行なっているか、また、『赤目姫の潮解』以外の作品において、どのような類似、共通点があるのかを見ていく。
2-1 森ミステリィにおける、人形遊びモチーフ
森博嗣の小説の第一作*7である『すべてがFになる』が発行されたのは1996年のことだ。四季サーガの始まりにあたる本作が、続きのシリーズすべてで重要な意味を持ち続けているのは、読者には周知の通りである。そんな『すべてがFになる』において、『ドグラ・マグラ』が言及されている*8。四季が両親を殺したのは、「人形」だと言ったことについて、萌絵は、『ドグラ・マグラ』に登場する夢遊病の事例を挙げて、考えを説明している。
「先生、私……、あの人形のこと、考えたんですけど……」萌絵は犀川に小声で言った。「『ドグラ・マグラ』って小説ご存じですか?」 「いや、名前は聞いたことがあるけどね。ミステリィ?」(中略)「ええ、最高のミステリィです。夢野久作という人が書いたずいぶん昔の作品ですけど……」萌絵は説明した。「その中に、狐憑きの話が出てくるんです。死んだ人間が通夜の晩に、庭を走り回ったりして大暴れするのは、実は、添い寝をしている人が無意識に死体を人形みたいに動かしている。つまり、自分で動かしているのに、死体だけが動いているのを見た、と思ってしまうのです(中略)とにかくですね、自分で死体を動かしておいて、死体が勝手に暴れたという記憶だけが残るというわけです。それが……、その、ちょうど、子供がお人形を動かして遊ぶときと同じで、子供には自分の手で動かしているという意識はないでしょう? お人形が生きているように観察している……。ね、意味わかりますか?」 (『すべてがFになる』pp74~75)
萌絵は、『ドグラ・マグラ』を「最高のミステリィ」と評価しているが、『森博嗣のミステリィ工作室』において、「日本のミステリィのナンバ1」と書かれているように、これは森博嗣の意見でもあるのだろう。
この人形遊びのモチーフは複数の作品で登場している。Vシリーズ第三作である『月は幽咽のデバイス』で、事件について合理的な説明がつかないために、警察は、被害者が薬物を摂取していたために、奇妙な行動をとったのだという解釈を取ろうとする。
「薬物による幻覚、つまり幻視・幻聴の類だといわれている」林は歯切れが悪い。自分で信じていない仮説を話すときはいつもこうだった。「自分で自分を傷つけ、大暴れする。幸いにも生き残った連中にあとできいてみると、例外なく、他人によって自分が傷つけられたと話すそうだ。精神と肉体が完全に遊離しているんだな。人形のように弄ばれている自分を、離れた場所から眺めている。その記憶しか残らない」(『月は幽咽のデバイス』p237)
『人形式モナリザ*9』でも、「自分を騙そうとし」、「自分が人形だと信じ込もうとした」キャラクタが描かれている。
このモチーフは、初期作品に限らない。Xシリーズ第一作『イナイ×イナイ』(p299)で、千鶴の正体が、兄の鎮夫でもあったということについて、真鍋は、「ええ、代役です。そういうのをしている自分を、またもう一人の自分が見ているわけですね。そうすれば、兄を見た、という記憶になるのかなって」と人形遊びのように解釈している。また人形遊びは、WWシリーズでも登場する。コンピュータによって作られた人格のクラーラが、どうして自分がコンピュータであるということに気がつかないのか、というセリンの質問に対して、グアトは以下のように説明する。
「高い知性を持っていれば、そのとおり、気づくはずだ。でもね、えっと、たとえば、子供のときに人形を動かして、ままごととか、ヒーロと悪者の戦いとかで遊んだこと、なかった?」 「うーん、あまり覚えていません」セリンは首を傾げる。 「人形を動かしているとき、子供は、人形が自分で動いている、と観察するんだ。人形の自由意志で判断し、動いているとね。これが、つまり仮想の自律だね」(『リアルの私はどこにいる?』p255)
このように、『ドグラ・マグラ』の狐憑き=人形遊びは、『すべてがFになる』はじめ、複数の森作品で取り入れられているモチーフである。
2-2 『夏のレプリカ』
『夏のレプリカ』の引用文は、夢野久作の『冗談に殺す*10』である。まずは『夏のレプリカ』は、『四季 夏』の「レプリカ」であると考えることができるということを確認しよう。『夏のレプリカ』の英語タイトルは、『REPLACEABLE SUMMER』であり、これの日本語訳は、まさしく『四季 夏』のしおりに書いてある、「取り替えられる夏」だ。天才的な頭脳を持つ主人公が誘拐されること、また、作中の殺人事件の「犯人」がその天才であることなど、プロット上にも共通点がある。四季サーガのターニングポイントである、『四季 夏』と同等な物語で、夢野久作を引用しているということから、森博嗣が夢野久作を重視していることがわかる。
森博嗣は、引用している書籍は読んでいないことが多いと言っているが*11、『森博嗣のミステリィ工作室』において、「手に入る夢野久作の作品はすべて読みました」と言っていること、そして、杜萌が、「いいのよ、殺しても」と、『冗談に殺す』のセリフ*12を言っていることからも、『夏のレプリカ』は夢野久作の影響を受けて書かれた作品の例の一つであると言って良いだろう*13。
さらに、この「いいのよ、殺しても」に類似する台詞は、『ドグラ・マグラ』にも登場しており、「寝床の中で女が冗談に『殺してもいいわよ』と云った笑顔を見てホントウに殺す気になったり……」と、精神病ではない通常の人間であっても、「心理遺伝」の影響を受けるという架空の学説の実例として挙げられている。
2-3 『目薬αで殺菌します』における「脳髄論」
『ドグラ・マグラ』作中の資料に、『絶対探偵小説 脳髄は物を考える処に非ず』というものがある。これは、思考は脳ではなく、全身の細胞によってなされるという内容のインタビューの書き起こしである。ここで喋っているのは正木教授なのだが、以下の引用文はアンポンタン・ポカン氏が喋っていた内容を正木教授が説明しているという状況であり、さらに言うと、このアンポンタン・ポカン氏の発言内容は、普段の正木教授の講義そのものだという、何重もの入れ子構造になっている。
しかしこれだけでは、あんまり簡単明瞭過ぎて、わかり難いかも知れないから、今すこし砕いて説明すると、われわれが常住不断に意識しているところのアラユル慾望、感情、意志、記憶、判断、信念なぞいうものの一切合財は、われわれの全身三十兆の細胞の一粒一粒毎に、絶対の平等さで、おんなじように籠もっているのだ。そうして脳髄は、その全身の細胞の一粒一粒の意識の内容を、全身の細胞の一粒一粒毎に洩れなく反射交感する仲介の機能だけを受持っている細胞の一団に過ぎないのだ。 赤い主義者は、その党員の一人一人を細胞と呼んでいる。それと同様に細胞の一粒一粒を人間の一人一人と見て、人間の全身を一つの大都会になぞらえると、脳髄はその中心に在る電話交換局に相当する事になる。そうしてソレ以外の何物でもあり得ない事がわかるのだ。(『ドグラ・マグラ 上』p210)
『目薬αで殺菌します』の主要人物である矢場香瑠が、これに似た考えを持っている。
心と体はね、同じものなの。心が体のどこかにあるんじゃない。脳にある、なんて考えていでしょう?(中略)体の全体で考えている。体の隅々までね。単に、神経っていうもので、連絡を取り合っているだけのことで、脳はその信号の中継*14をしているだけなんだ。(『目薬αで殺菌します』p182)
このように、『目薬αで殺菌します』の主要人物である矢場の主張は、『脳髄は物を考える処に非ず』とほとんど同じ内容である。また、『ドグラ・マグラ』の呉一郎は、「心理遺伝」により、ある条件下で先祖の呉青秀の意識になるという、多重人格であったが、これは矢場が別のキャラクタの一人格であったことを想起させる。以上のことから、『目薬αで殺菌します』が『ドグラ・マグラ』の影響のもとで書かれただろうということは想像に難くない。
また、詳しくは次の項で述べることにするが、『目薬αで殺菌します』は、犀川により「共通思考」の基本的な考えが述べられる重要な作品であるため、矢場の発言は、「共通思考」と『ドグラ・マグラ』の関連(ひいては、『赤目姫の潮解』と『ドグラ・マグラ』の関連)を結びつけることの重要な状況証拠の一つと言える。
2-4 森ミステリィにおける「胎児の夢」
『ドグラ・マグラ』において、『胎児の夢』という論文が重要な意味を持つということは前述の通りだが、森作品にも同じく夢を見る胎児というモチーフを扱う作品がある。まず、短編集『レタス・フライ』収録の『皇帝の夢』から引用する。
ああ、そうか、まだ生まれていない誰かが、こんな夢を見ているのかもしれない。
そう思うと、あたりの明るさが増した気がする。
もうすべてが白すぎて、明るすぎて、区別がつかない。(中略)
もうすぐ生まれるのだ。もう少しの辛抱だ。
生まれれば、きっと落ち着ける。(『レタス・フライ』pp150~151)
これに対し、『クレィドゥ・ザ・スカイ』(中公文庫、p13)では「たとえば、僕は胎児で、まだ生まれていないのかもしれない。近くに女の気配があるのは、きっとそのせいかも。この真っ白な世界は、母親なのだ」という描写がある。この二つに共通するのは、胎児の見る夢は白い(明るい)ということである。
また、『六人の超音波科学者』(p252)でも、小鳥遊練無が意識を取り戻す時に、「僕は今、生まれたのだろうか。眠りたいな、と思う。目を閉じる。夢だ。これは、きっと夢だ」と考えており、胎児の夢モチーフに類似した描写が登場する。
2-5 『ψの悲劇』
『ψの悲劇』は、引用文やタイトルからも明らかな通り、『Yの悲劇』へのオマージュ作品であるが、一方で、『ドグラ・マグラ』に類似した点も存在する。まず一つ目に、『Yの悲劇』にも当てはまることではあるが、作品のタイトルと同じタイトルの小説が作中に出てくるという*15点が『ドグラ・マグラ』と一致している。ただし、作中『ドグラ・マグラ』が実際の『ドグラ・マグラ』と重ね合わせられるほどの作品であるのとは異なり、この作中『ψの悲劇』は、固有名詞も解決編もない質素な小説であり、やはりむしろ作中『Yの悲劇』に近い。2つ目の類似点は、特定の行為により、別の人格が発現するという点である。『ドグラ・マグラ』の呉一郎は、先祖の呉青秀が描いた絵巻物を見ると、その呉青秀の人格になる。これは、本作の視点人物の鈴木が、作中『ψの悲劇』を読むと、八田洋久の人格が発現するということと似ている。
2-6 その他の類似
『ドグラ・マグラ』では、正気と狂気の間に本質的な差はないという思想が語られる。正木教授は、『地球表面は狂人の一大解放治療場』で、「実際のところをいうとこの地球表面条に生きとし生ける人間は、一人残らず精神的の片輪者ばかりと断言して差し支えないのである」(『ドグラ・マグラ 上』p175)と述べている。四季サーガでも、類似したテーマが扱われている。
「そんなの異常だ、と思った?」紅子が囁くように言う。前を向いたままだった。「ええ、とても、普通の神経ではそんな……」「普通じゃない。そう、誰だって、普通じゃないわ。普通っていうのは、つまり平均でしょう? 平均したものは、シーソーの中心に来る。だけど、そこには誰も乗っていない」(『赤緑白黒』pp298~299)
また、『赤目姫の潮解』と同じく、「幻想小説」とカテゴライズされている*16『イデアの影』で、『ドグラ・マグラ』と似た描写がある。『ドグラ・マグラ』の主人公は、記録を読み終わると、窓の外に、呉一郎らしき青年の後ろ姿をみる。
「それじゃモウ一つ尋ねるが、あの畠の一角に立って、老人の鍬の動きを見ている青年がいるだろう」「ハイ。おります」 「……ウム……いる……ところでその青年は今、ドッチを向いて突立っているかね」 私は正木博士の質問が、いよいよ出でてイヨイヨ変テコになって来るので、妙な気持ちになりながら答えた。「こちらに背中を向けて突立っております。ですから顔はわかりません」「ウン……多分そうだろうと思った。……しかし見ていたまえ。今にこちらを向くかも知れないから……。その時にあの青年が、どんな顔をしているかを君は……」 正木博士がこう云いさした時、私の全身は何故か知らずビクリとして強直した。心臓の鼓動と呼吸とが、同時に止まったように思った。 その時に正木博士に指されていた青年……呉一郎のうしろ姿は、あたかも、何等かの暗示を受けたかのように、フッとこちらを振りかえった。私達の覗いている硝子窓越しに、私とピッタリ視線を合わした……と……その顔に、今まで含まれていたらしい微笑がスーと消え失せて……今朝程、あの湯殿の鏡の中で見た私の顔と寸分違わない、ビックリしたような表情にかわった。(『ドグラ・マグラ 下』pp171~172)
主人公が見た青年は、主人公自身と同じ顔をしていた。これは、主人公の人格の分裂についての暗示とも考えられるが、療養所において、自分と同じ顔の存在を発見するという描写が『イデアの影』(中公文庫)にも存在する。
「月が綺麗ね」彼女は、少年の顔を見て言った。「その月の下だよ。あの窓を見て」
もう一度、彼女は振り向いて見上げる。 正面の二階の窓に、人が立っていた。 長い髪の女性で、ガラス越しにこちらを見下ろしている。(中略)それは、いつも鏡で見ている自分の顔だった。(『イデアの影』p174)
詳しくは後述するが、『イデアの影』と同じ漫画を原作に持つという短編小説『純白の女』*17の主人公も呉一郎同様、人格を複数持つ。さらに、『イデアの影』における記述、「生きているから時間を感じるのだけれど、実は一瞬なのかもしれない」(同作p243)も、前述の『ドグラ・マグラ』の時間観と類似している。
2-7 エッセィにおける夢野久作についての発言
森博嗣は、複数のエッセィで、夢野久作や、『ドグラ・マグラ』について言及している。これらの発言について確認しておく。『森博嗣のミステリィ工作室』での夢野久作の評価については2-1、2-2で前述した通りである。また、森博嗣は『ドグラ・マグラ』についてある「仮説」を持っているという。
この作品は名作過ぎて、未読の人の方が少ないのかもしれませんけれど、結局、犯人の正体は、はっきり書かれていません。もうこの時代に、そういう先進的な作品があって、それを大勢が評価した、という事実にもっと注目すべきだと思います。僕は再読のときに、ある仮説を立てて読み進んだのですが、結末近くで躰が震えました。自分では、その仮説が正解だと思っています。(『森博嗣のミステリィ工作室』)
『毎日は笑わない工学博士たち』(幻冬舎文庫、p32)で森博嗣は、「昨年まで日本のミステリィ作家は夢野久作しか読んだことがなかったのだから」と述べている。また、同作(p237)で映画版の『ドグラ・マグラ』について、「脚本はマル」と述べている。
また、森ぱふぇ内にある質疑応答のページ*18に、非常に重要な発言が記録されている。『ドグラ・マグラ』のような作品を書きたいか、という質問に対して、森博嗣は以下のように回答している。
これ、なかなか良い質問ですね。つまり、「この一作に賭ける!」という意気込みのことでしょうか?それなら、森にはありません。死ぬまでに書く全部で、一作です。それとも、怪奇怪奇のどろどろストーリィでしょうか?それなら、書こうと思ったら書けるでしょう。テクニック的なことです。しかし、ドグラマグラ*19のような小説は書きたいですよ。書けるものなら・・。(『森の小道』)
この質疑応答は、1998年12月25日以前に行われたものだ。この後に書かれることになる『赤目姫の潮解』こそが、「ドグラマグラのような小説」なのだろう。
3 共通思考とは何か?
「集団の意志と情報の筋道だけが、都市の概念ですし、
すなわちネットワークそのものの概念に近づくことになります」(『すべてがFになる』より)
本項では、四季サーガ全体の物語の影で見え隠れする、「共通思考」とは何かについて考察する。
3-1 一人とは何か?
「共通思考」の「共通」という文字からもわかるように、「共通思考」は、人間や、ウォーカロン、人工知能といった存在が繋がった、巨大なネットワークなのではないかと考えることができる。Wシリーズの、タナカの解釈がそれである。
組織、あるいは生命体、でしょうか。ええ、つまり、人類、ウォーカロン、そして人工知能、これらをすべてまとめてしまおうという発想です。一つになる、とマガタ博士は予測していたはずです(中略)ただ、確かなことは、時間を要している、という点だと思います。時間を使っている。長期間にわたる変化を待っている、というのでしょうか(『青白く輝く月を見たか』pp131~132)
ここで問題となるのは、それがどのように繋がっているのか、ということだ。そのためには、その繋がりの単位として使われている、「一人」とは何かということから考えなくてはならない。一人とは何かというテーマは、S&Mシリーズから言及されている。
「もちろん、人は人。個人は個人。それは尊重しているつもりですよ。もっともそれがどこまで明確に分割されているものなのか、疑問は残りますけどね……(中略)僕も一人、他の大勢も全部合わせて一人。どちらも一人なんだから対等ではありませんか?(中略)」
寺林の発言は、飛躍し始めている。(中略)
たくさんのクリップが箱に入っているとき、それらは絡み合い、知らず連結する。まるで人の社会のように。人間も、最初から自然に連結する形にデザインされていたのだろうか。
では、一人とはなんだ?
どうして、一人一人に意志が存在するように考えられるのか。
ここまで分散化した処理機能が、社会に必要だろうか。
もし、そうならば……、
どうして一人の人間は、それ以上に分散できないのか?
どうして一人のままなのか。
どうして一人でいようとするのか。
どうして……。(『数奇にして模型』pp627~628)
ここで描かれている通り、四季サーガでは、「一人」という単位に疑義が挟まれる。四季と犀川のように複数の人格を持つキャラクタや、『迷宮百年の睡魔』において、一つの頭脳が別の人格を持って複数の体をコントロールする描写があることも、まさしくこの「一人」という単位に対するアンチテーゼであると考えられる。さらに、『ψの悲劇』により、ポストインストールによって、八田洋久、島田洋子など、同じ人格を持つ存在が複数出てきたことも、同種の設定だと言える。さらに明白な例が、『それでもデミアンは一人なのか?』のデミアンである。デミアンは、サエバ・ミチルやロイディとも重なるところがあるキャラクタであるが、タイトルで「一人」ということについて問われている。
ところで、四季が人格を複数持っているということは、『すべてがFになる』や『四季』からも読み取ることができるように、周囲の人物も了解している。その一方、犀川創平が人格を複数持っている、ということについて意識的なキャラクタは、西之園萌絵を除いて出てこないし、瀬在丸紅子についても、練無や保呂草だけが、彼女を多重人格だと見なしているように描写されている。このような一般的に多重人格とみなされているかどうかという違いは、人格間で、記憶と思考の伝達ができるかどうかに由来すると考えられる。
四季は特別な人格なので例外であるが、四季以外の人格は、記憶などに制限がかけられているということが示唆されている。
僕は完全に独立している。僕としては、一人の人格だと自覚している。でも、僕は、完全に四季に取り込まれている。四季には、僕のすべてが取り込まれているのだ。だから、僕が見たこと、考えたこと、知ったこと、感じたこと、そのすべてが彼女のものだ。
でも、その逆はない。(『四季 春』p178)
四季は、其志雄たち、他の人格の思考や知覚を包含する一方、其志雄たちは四季の思考や記憶を見ることができない。そのため、その不均衡が、外部からも認識される結果となる*20。
多重人格であることが広く知られている四季に対し、犀川は、『すべてがFになる』はじめ、その人格が複数あることが述べられているが、萌絵を除いて、周囲から多重人格だと見られている様子はない。はっきりと示す文章はないが、「表向きのコントロール」に加え、犀川の人格が、お互いに記憶や情報を完全に共有しているからだろう。
対処の仕方は心得ている。表向きのコントロールに神経を集中すれば良い。(中略)しかし、彼の思考を支配している原始の人格は、大暴れしている。喚き散らし、唾を飛ばし、大声で叫びながら、手当たり次第、記憶の出し入れをしている。(『すべてがFになる』p326)
犀川の「原始の人格」は、自分が眠っていた時の記憶を用いて計算している。また、事件の真相を最後に犀川が明らかにするとき、おそらく原始の人格は眠っていることから、原始の人格の計算は犀川の他の人格にそのまま伝わっていたのだろう。
また、森博嗣自身が多重人格と情報伝達の関係について述べているが、以上の論旨と一致している。
「森の認識では、誰でも多重人格です。それを1人の人間として辻褄を合わせるように演技をしているのではないでしょうか」「ビリー・ミリガンや『失われた私』のシビルといった、一頃流行った多重人格の場合、特徴的なのは、『多重』性ではなく、相互の意志疎通が欠如している、あるいは、それを意識的に拒否している、という部分です。そこが病的であるといえます。通常は、多重の人格相互の情報交換が行われる(つまり、大半の感覚や記憶を共有している)だけのこと……、というのが森の個人的な見解です。まあ、例を挙げれば、夢なんかがそうですね*21。あれは別の人格で、意志疎通の欠如も起こります。(専門じゃありませんから、あくまで趣味的な認識ですけど)」(MUSC*22 )
以上から、「一人」について、犀川や萌絵が使う「一人」と、作中の一般のキャラクタおよび、私たちが日常生活で使う「一人」は意味が異なる概念だと考えたほうがいいだろう。一つ目が、「特定の様式を持った思考」を「一人」とする見方で、この定義に従えば、四季だけでなく、犀川も複数の人格であるということになる。二つ目が、「記憶などの情報を共有した(複数の)思考」を「一人」とする見方で、この定義に従えば、犀川は一人の人格としてみなされる。
「特定の様式*23を持った思考」の例として、『すべてがFになる』(p323)において、犀川は、萌絵の思考の癖を「ほらね。それが君の思考パターンなんだ。ランダムに思いつくものから正解を発見する」と評している。当然のことだが、この思考の様式というのは、明確に数えるものができる類のものではなく、連続的に変化していく。そのためこの定義を使うと、「一人」という言葉がそもそも曖昧だという結論に至っている。
二つ目の「記憶などの情報を共有した(複数の)思考」を「一人」とする定義は、四季サーガにおける、犀川や四季、萌絵などの主要人物を除く一般的な人々、そして私たちが採用している定義だ。しかし、この定義に従うと、二人の人間が(ここでの二人は、一般的な意味で使っている)が会話をして情報を共有しつつ思考している時、この二人を「一人」としてみなさなくてはいけないことになる。森博嗣作品を好み、沢山読んできた読者は、「森博嗣」という人格をポストインストールされた、森博嗣のサブセットになると言えるだろうか?そう考えるのは面白いが、現実的な態度ではない。そのため、二つ目の定義を、以下のように修正する。
「画像、映像、思考といった情報を、言語などによって圧縮することなしに、共有することのできる(複数の)思考様式」を「一人」としてみなす*24。
犀川たちのとる「一人」の定義に対して、一般的な「一人」の定義は、このようになるだろう。この定義なら、四季を複数の人格とみなしつつ、犀川や萌絵を一人の人格としてみなす作中における一般的な態度と一致するし、常識との乖離もない*25。
この定義は、情報通信技術の発展によって、「一人」の境目が変化することを示唆している。二つ目の定義に従えば、(一般的な意味での)二人の人間の間で、画像、映像、思考といった情報を、圧縮せずにそのまま通信することができるようになれば、その二人は「一人」としてみなすことができるようになる。情報通信技術はヴァーチャル技術に通じる。この境目の変化は、Wシリーズ、WW シリーズで世界が直面している問題である。
人がヴァーチャルへシフトすれば、肉体を失って、「一人」という概念がやがて曖昧になる。二人が融合したり、反対に、一人が二人に分裂することが当たり前の世の中になるだろう。それこそが、マガタ・シキ博士の共通思考の基礎概念となるものだ。(『リアルの私はどこにいる?』p258)
情報技術の発達により、周囲から断絶した思考というものはなくなっていく。自分の思考と他者の思考の境目はなくなり、「アメーバ*26」のような群体としての思考が出来上がる。これが共通思考のイメージである。もともと犀川たちからすれば、曖昧であった「一人」という概念だが、共通思考を可能にする技術のもとでは、誰にとっても曖昧になる。
犀川が、共通思考について語っているシーンが、『目薬αで殺菌します』にある。犀川は、四季が、「新しい生きもの」、より正確に言えば、「新しい思考の仕組み」*27を作ろうとしているのだと言う。
その頭脳というのは、とても大きなものなんですよ。部屋に入るようなものではなくてね。そして、沢山の人間や、沢山のコンピュータが、その一つの頭脳の中に含まれる。いえ、一つではないかもしれない。個数を数えることも無意味でしょうね。ネットワーク自体が頭脳なんです。人間の大きさも、そして人間の時間も、すべてスケールを超えている。(『目薬αで殺菌します』p218)
どちらの定義を採用するにしても、個数を数えるのは無意味になる。そもそも「一人」というのは一つ目の定義においては曖昧であったのに加え、情報技術の発展した未来では、二つ目の定義も、もはや現在の我々が言うところの「一人」とは合致しなくなる*28からだ。
情報の通信技術の発展は、『ψの悲劇』のポストインストール技術などからも垣間見ることができる。ここで通信されるデータにについて、『赤目姫の潮解』(p287)から引用しておく。
けれども、思考や論理なんてものは、解像度が高くはない。もっとデータ量が多いのはイメージ。何も考えなくても、ぼんやりと思い描くイメージこそが、最も偉大な汎用の意思。その信号のデータ量こそが、人間というものが到達した高みといえます。人は色を見る。明暗だけではない。フルカラーのイメージを見ているの。そのデータ量には、他の生命体は、到底及ばない。(『赤目姫の潮解』pp287~288)
このことからも、イメージ(これは当然映像、そして映像による思考を含むだろう)の通信というのは、重要な意味を持つとわかる。サリノは、『デボラ、眠っているのか?』(p50)デボラとの通信について、「声が聞こえるときもあるし」、「頭の中のもの」を「見せ合うときも」あると述べており、トランスファはイメージの共有が可能であるとわかる。以上の結論として「共通思考」における通信のキャリアが、トランスファであるとわかる。『それでもデミアンは一人なのか?』(pp222~223)で、グアトは、「マガタ博士が提唱する共通思考とは、そのイメージなのではないか。大きな思考システムにおいて、トランスファは脳波のようなもの、電気信号の組織化であり、パケットなのだ」と述べている。さらにグアトは、同作(p224)で、「世界における神経信号」がトランスファだったと述べている。赤目姫=トランスファ*29が他者に乗り込むのは、まさに、他者の視点を得て、他者に思考をイメージのまま伝えるという操作である。
イメージの通信のその他の例として、『迷宮百年の睡魔』におけるサエバ・ミチルとロイディの通信がある。眠っていたミチルはロイディの視覚をジャックする。このことは、ミチルの頭脳がロイディに搭載されていたことに起因するが、この現象を、真賀田四季(メグツシュカ・スホ)は確認しており、ここからイメージの通信技術に飛躍が起こったという可能性も考えられる。
最後に余談ではあるが、生命体そのものについても、「一つ」という概念が適用できないということについても触れておく。
それでも、まったくの無から高等な生命体を作り出すことはまだできない。過去に存在した生命、細胞からのコピィを始点としてしか、新しい命を作り出せないのだ。それはどうしてなのか? あまりにも複雑で時間のかかるプロセスがそこに存在するからだ。一つの生命のように見えても、実は数々の生命が関わっている。生命自体が、既に複合体なのだ。 ある生命にとって害となる生命がいて、一方では、ある生命の維持に不可欠な別の生命が存在する。現在、人類の大問題となっている生殖についても、そういった方面での解決の糸口が見えつつある段階だ。(『私たちは生きているのか?』pp116~117)
人間が生殖できなくなるというWシリーズの設定も、「一人」あるいは「一つ」という概念の崩壊という、四季サーガ初期からのモチーフの延長線上にあるのだ。
3-2 「共通思考」の思考とは何か?
共通思考が、「一人」という単位すら無意味にするほどの、人間、ウォーカロン、人工知能間の高度な相互通信でできているというのが、前項の結論である。続いて本項では「共通思考」の「思考」*30がどのようになされているのかについて見ていく。結論から言うと、『赤目姫の潮解』における戦い自体が、共通思考の思考だと考える。しかし、それについて触れる前に、共通思考にとっても本質であると思われる、「矛盾」について触れておく。「共通思考」の思考は、普通の人間より、四季の思考に近いだろうということは『目薬αで殺菌します』で示唆される通りである。本論からは逸れるが、真賀田四季の思考の一端に触れると言う意味でも、少し触れておく。本項では断りのない限り、四季の娘を「道流」と呼ぶ。
3-2-1 四季の矛盾
真賀田四季が矛盾について言及するシーンはいくつかあるが、『四季』と『すべてがFになる』にも大きな矛盾がある。この矛盾を読み解くと、四季の内部のさらなる矛盾が立ち現れる。本項では1994年の妃真加島の事件について考えるため、まずは両作における事件の解釈をまとめる。
『すべてがFになる』の犀川の説明によれば、事件の七年前、四季は、研究所全体を管理するOS「レッドマジック」を完成させた。これは一時間に一つずつ数をカウントし、「すべてがFになる」と、黄色のドアを開け、システムの時間を一分遅らせ流ことで、ドアの監視カメラの映像を消す。黄色いドアの密室で、四季は密かに出産しており、その14歳になった娘の道流を脱出の前に殺害する。「真賀田四季」の死体(実際には道流)が発見され、研究所が混乱している間に、真賀田未来として、四季は研究所に戻り、隙を見て脱出した。
これに対して『四季 秋』(pp189~190)で、四季は、録画された映像の中から犀川たちに、事件のさらなる真相について語る。四季によれば、彼女は「実験中に感電」して亡くなったのであり、「その事故が、娘の意思によるも」であった。また、「私は、亡くなった娘のために、あそこを出たのです。」との発言は、その後の物語で犀川が示唆しているように、道流のクローンを作ろうとしていたということだ。
真賀田四季と道流は、事件の発覚の三年前から入れ替わっていたが、これは道流が事故死であるという主張と矛盾する。もし、『四季 秋』で四季の語った内容がすべて真実であるなら、四季は入れ替わらず、ずっと本人が通話などにも出続けていたはずだ。四季と道流の入れ替わりは、道流の死体の発見時に、その死体を四季だと誤認させるためだった。道流が脱出するという計画が、道流の死の直前まで変更されていなかったなら、入れ替わりはしなかったはずだ。逆に言えば、入れ替わりのタイミングで、すでに、道流が死ぬことは決まっていたということになる。本項の目的はこの矛盾の解消である。四季は『秋』でただ嘘をついたのだ、という解釈もできるが、これは採用しない。
嘘をついていたという解釈を採用しない一つ目の理由として、四季が新藤清二に対して、「私の生む子が大きくなれば、私や、叔父様をきっと殺すでしょう」(『四季 夏』p277)と言っているということがある。二つ目の理由として、四季には、「自分の立場を弁解する必要性」(『四季 秋』p189)がないし、そして最後に、もし初めから式本人が脱出しようとしていたのなら、自分の産む子供が娘である必要があるため、不完全な計画だったということになるからだ*31。
以上の議論を踏まえ、四季は『四季 秋』で大きな嘘をついていないと仮定し、道流はやはり自殺をしていたとする。この解釈のもとで、四季と道流が入れ替わる状況が一つ考えられる。それは、道流が母親を殺すことに耐えられず に、自殺するだろうということを、四季はそのずっと前に確信していた、ということだ。つまり、四季たちが入れ替わりをせずに、道流に殺されるという計画をそのまま続けようとしても、失敗すると四季は予見するという状況である。このシミュレーションが、四季がまさしく『秋』で語った内容である。確信という言い方をしたが、天才である四季にとってこの未来は確定的だっただろう。四季は道流が自殺するということを知った上で、まだ死んですらいない彼女のクローンを作るために、Fの事件を計画し直した。
以上のことをまとめると、事件の本当の経緯は、以下のようなものだったと推察される。
1四季、真賀田研究所に幽閉される
2道流の出産
3道流に自分を殺して出るように教育
4道流には自分を殺せないということ、道流が自殺するつもりだということを予見
5入れ替わり(事件の三年前)
6道流自殺
7F
さらに、道流も、四季が自分の自殺を予見していることを知っていたことになる。入れ替わりをしたということは、四季が脱出するつもりだと道流には理解できただろうし、さらに、四季の脱出のタイミング(これは「すべてがFになる日」であり、計画の変更に関わらず初めから厳密に決まっていた)で自殺したということも、それを裏付ける。
こう考えると、『四季 秋』で四季が真実を語らなかった理由も説明できる。『四季 秋』で、萌絵は、歪曲された真実ですら、受け入れるのに苦痛を感じていた。もし、上記の内容をそのまま伝えても、萌絵は全く許容できなかっただろう。娘の自殺を予見していながら、それを利用して娘のクローンを作るという計画は普通の精神には容認できない矛盾だ。四季は、子供がドアの鍵をかけてしまうことに対して、それをやめさせるのではなく、ロボットに鍵を開けさせるという対処をとったが、それと全く同じように、彼女は子供が自殺することを許し、クローンを作ることにしたのだろう。四季は萌絵の中の「真賀田四季」の擁護をし、萌絵に対する救済を行うために、受け入れやすい形の歪曲された真実を伝えたということになる*32。
さて、先ほど、道流は、「母親を殺す」ことに耐えられなかった、と述べた。しかし、実は、これだけでは、問題にはならない。もし四季が自殺すれば、あとは『F』と同じような段取りで道流は「真賀田未来」として登場することで、簡単に脱出できる。四季が明らかな自殺であれば、部屋の中に二人の人間がいたという可能性には誰も気付かなかっただろうし、四季の手は解錠に不必要なので、手足を切断する必要もない。四季が自殺しないという選択をしたのは、道流が、四季を殺すことだけでなく、四季の自殺すら許容できなかったからかもしれない*33。
3-2-2 思考という戦い
「矛盾」が共通思考の本質であると考えるのは、共通思考と四季の思考が類似するだろうという推測だけによるものではない。その思考が戦いのような形式を取るだろうと考えるからだ。Wシリーズで、ハギリは、この共通思考の思考様式を夢で見ている。この夢は、「見させられている」ものだ。
大勢が戦っているように見えた。それぞれの個体は、相手の個体を攻撃し、これを破壊しようとする。破壊すれば、また次の敵へ向かう。倒された方は、それで終わりになる。ということは、つまり、数を減らした方が負ける。しかしここでは、数というものの概念が、僕が認識していたものと違っていた。何故なら、そもそも最初から数がない。(中略)だが、それは部分的には、現実の社会の模倣なのだ。現実とは何か、という疑問を棚上げにした論議となるけれど、関係性、価値観、そしてそれらを含む環境を模倣して、あるいは、その環境法則に立脚して、仮想の場がデザインされ、作られたのだから、こうなることは必然といえる。(中略)しかし、その視点を引き、遠い場所から全体の戦況を観察すると、敵も味方も、いずれもアメーバのように形を変える生き物に見えた。(中略)戦いによって生きている幻想を見るのだ。(『デボラ、眠っているのか?』pp180~181)
アメーバのような細胞群が、勢力争いをしている夢を見た。僕は、それを高い位置から傍観していた。アメーバは本来単細胞だが、そうではなく、無数の細胞が集結して、一つの軟体のように活動する。それが二つでぶつかり合っていた。音もないし、明暗もない、不思議に静かな世界だった。(『人間のように泣いたのか?』p185)
「戦い」としての思考について、具体例をいくつか述べる。
まず一つ目の例として、森博嗣本人の思考も、こう言った多重人格的、あるいは「戦い」のような形式を取るようだ。『数奇にして有限の良い終末を』(幻冬舎、p492)で、森博嗣は、「頭の中では先生が何人もの社員に分かれて、会議で意見を戦わせているのでしょうか」という質問に対して、以下のように回答している。
そうです。今は現場監督だなとか、今は整備技師だなとか、意識します。「社長の命令だから、面倒だけれど、しかたがないよな」とか愚痴りながら作業をするわけですね。そういった「ごっこ」が楽しいのですね。(『数奇にして有限の良い終末を』p492)
もっとわかりやすい例は、国家や会社といったシステムだ。国家は、議会で意思決定を行うが、その議会では、異なる主張を持った複数の政党が議論を戦わせている。
「では、アミラが語っている共通思考については、いかがですか? 人工知能が世界をまとめて、一つの思考回路を築くこと、一つの意思を形成すること、それは意味のあることでしょうか? はたして現実的に可能なことでしょうか?」「全然そこまで考えていません」僕はまた首をふる。「でも、これだけネットワークが完備して、文明の価値を世界で共有しなければならない社会になったのですから、そういったものが必要だと考えるのも、ある意味自然なことだとは感じますね。たとえば、少しまえの国家がそうでした。政府とか議会というものを作って、国の意思を決定したのです。そうしないと、社会に対して合理的な活動を実現できない。まあ、その当時は、ほかの国があって、自国を有利に発展させなければならないという切迫した事情があったわけですけれど」(『ペガサスの解は虚栄か?』p112)
ハギリが、共通思考を国家になぞらえて考えていることからも、国家の意思決定プロセスから共通思考について類推することは的外れではないだろう。また、国民が複数の国籍を持つことや、領土問題などといった事例を考えれば、国家の境界は不安定であり、これは先ほど考えた「一人」の定義の曖昧さに近い。赤目姫の潮解に出てくる「ほとんど同じ人物」という表現も、国家の歴史的な同一性*34などから類推できる概念であろう。
最後に四季の思考から例を挙げると、この思考の内部における分裂した勢力という構図は、『四季 夏』においての瀬在丸紅子との邂逅で見られる。
四季の中では、既に議論が巻き起こっていた。瀬在丸紅子に対する評価が分かれたのだ。六割は、彼女との接触は無駄であると断定した。残りの四割は、今も可能性を見出している。人の評価で意見がこれほど分かれることは、極めて珍しい。(『四季 夏』p50)
共通思考の内部でも、複数の勢力に別れ、お互いに戦っているだろうと考えられる。この思考の勢力は当然、人間や、国家といった存在の「思考」における勢力よりも、複雑な形式を取るだろう。複数の思考様式が戦うということは「共通思考」の内部で淘汰圧が存在するということを意味する。思考における淘汰圧は、普通の人間であれば、外部の境界条件などにも依存するだろうが、後述の理由により、共通思考は外部からの影響を受けていない。そのため、淘汰圧が存在すると、現実の自然に相似の内部が構築される。
「出力することで、自己観測が築かれるのではありませんか? たとえば、肉体がない頭脳には意識は生まれにくいと思いますが」「いえ、そんなことはありません。活動している他の肉体を観察できます。また、出力は必ずしも外部に影響を与える行為だけに限定されません。別の言い方をすれば、内部に外部を仮想的に構築することもできるはずです。それは、やはり計算能力と記憶容量の余裕がもたらすものです」(『魔法の色を知っているか?』pp47~48)
「仮想的に構築された外部」では、自然に類似するため、ある種の「適者生存」が起こる。その結果、内部の勢力が採用するのが、自然における生物と同じ「遺伝子アルゴリズム」だ*35。
「何をしていらっしゃるのですか?」婦人が私に尋ねた。それは、自明のことだ。私は生きている。ほかに、どんな答があるのか。「そのサングラスは?」私は、問い返した。「サングラス?」彼女は首を傾げる。「そこにある、それです」私は指を差した。「これですか?」サングラスに目を向けたあと、彼女は微笑んだ。「よくご覧になって下さい」 私は立ち上がった。すると、サングラスが一瞬にしてテーブル面に張りついた。さらに近づいて確認をする。テーブルの上に、黒いサングラスの歪んだ絵が描かれていた。しかも、それは黒い粉が集まっているだけで、塗料を使ったものではない。黒い砂だろうか、細かい粒子だった。 私は溜息をつき、そのテーブルの椅子の一つを引いて腰掛けた。彼女に対面する位置だった。「今、私が体験したものが、遺伝子アルゴリズムです」私はそう言った。(『赤目姫の潮解』)
こうして「共通思考」が、自然と同じ形式をとることになる*36。このもう一つの「自然」が『赤目姫の潮解』で描かれている舞台に他ならない。つまり、『赤目姫の潮解』は、「共通思考」そのものを描いている作品だということだ。この戦いにおいて、双方が(勢力は二つ以上あるだろうから不適切かもしれない)、互いの動向を演算しあい、高度な予測をしながら闘うのだから、スケールは大きく、時間がかかる。「共通思考」内部で、複数の「思考」が戦い合い、それゆえ「思考」である登場人物は確固たる境界を持たないのだ。
共通思考は、初めは現実世界から独立しているが、演算に現実世界でのリソースを消費することになるため、徐々に外部の観測を開始する。実際の現実世界も共通思考で重要な役割を持つため、現実世界の人間のこともシミュレーションしなければならない。そのシミュレーションのために生まれた存在が、『赤目姫の潮解』世界の人間(の一部)である。例えば、篠柴は、Wシリーズのハギリ・ソーイといくつか共通点を持つ*37ことから、篠柴はハギリの思考のシミュレーションであると考えることができるかもしれない。これが正しければ、『赤目姫の潮解』の「時系列」は、Wシリーズと同時期である(さらに赤目姫の発言から、『デボラ眠っているのか?』よりも前だろう)。
それぞれのキャラクタが、共通思考の一端であるという「分散型のストラクチャ」は、先述の『脳髄は物を考える処に非ず』における、細胞一つ一つが思考しているというアイディアとも似ている。人間をシミュレーションしなければいけないということは、共通思考がまだ完成していないことを意味するのだが、このことについては、第5項でより詳しく考察する。
また、『赤目姫の潮解』の物語の全体が、思考する主体であるということの根拠として、作中の視点の自由な移動が挙げられる。一般的な森博嗣の作品では、三人称小説でも、章や項ごとに視点の人物が設定されており、その視点人物以外の心情描写はされない。『すべてがFになる』第四章の6に着目すると、この項では犀川が視点人物に設定されているため「犀川は(中略)思考を集中できなかった」と書かれる一方、視点人物でない萌絵については、「萌絵は驚いたようだった」と書かれているように、直接心情を表現されることはない。
この例外になるのが、一人の中にある複数の人格なのである。『まどろみ消去』収録の『純白の女』で、視点人物だったはずのユリカと「少年」の視点は、『赤目姫の潮解』のように、シームレスに移動する。
部屋のライトを消して、私はベッドに入った。けれど、目を瞑っても彼のことばかりが心配。なかなか眠れなかった。どこで、何を、しているのだろう。外は寒いのではないか。 旅の疲れか、少しうとうととしたとき。小さな音がした。 窓に小石が当たったような音。 僕が投げた石。(『まどろみ消去』p59)
この視点の移動が許されるのは、結末で示唆されるように、「少年」がユリカの一人格であるからだ。同様にして、『赤目姫の潮解』で視点の飛躍が起こるのは、登場人物たちが、より大きな思考、すなわち共通思考の一人格に過ぎないからだと考えられる。
4 『赤目姫の潮解』と『ドグラ・マグラ』
……何もかもが胎児の夢なんだ……あの少女の叫び声も……この暗い天井も……あの窓の日の光も……否々……今日中の出来事はみんなそうなんだ……。
……俺はまだ母親の胎内に居るのだ。こんな恐ろしい「胎児の夢」を見てもがき苦しんでいるのだ……。(『ドグラ・マグラ』より)
『赤目姫の潮解』は、共通思考そのものであるというのが前項までの結論である。本項では、『ドグラ・マグラ』との関連から始め、共通思考および『赤目姫の潮解』についてさらに考えていく。
まず物語の構造について見ていこう。前述の通り、『ドグラ・マグラ』は、冒頭と結末が似ている(同じではない)擬似円環構造になっており、作中作が登場するメタ構成になっているが、これと『赤目姫の潮解』の構造は類似している。赤目姫の冒頭は、鮭川、篠柴、赤目姫が、「廉潔の館」に招かれるところから始まる。そして、結末でもその3人らしき人物が館の主と談笑しているところが出てくる。しかし、視点人物はそれを「人形遊び」と見ており、一つメタな視点に立っている。これも、円環構造的だが、少し違うという点で、『ドグラ・マグラ』と似ている。
『赤目姫の潮解』のこの円環構造はどのような意味を持つのだろうか?円環的な時間というのは、現実世界とはそぐわない*38。そのため共通思考の時間の流れは、現実世界の物理的時間とは乖離*39しているということになる。また、内と外で時間の流れが違う*40というのは、『迷宮百年の睡魔』の主要テーマであり、これは『赤目姫の潮解』(p338)でも、「何故、水が一夜にして増えるのか」という質問に対して「一夜が、私が認識している時間とは別のものだからです」と述べられている通りである。そして、前述した、現実の時間と主観的な時間(唯物論的な時間と真実の時間)が異なるという『ドグラ・マグラ』における時間論とも対応している。
共通思考の思考は、トランスファによるイメージの通信であり、「自然」にちかい世界であり、その世界における戦いだと述べた。しかし、この思考はさらに細分化することができるため、作品内現実の中に共通思考があるように、共通思考内部にも、無数のさらなる「共通思考」があると考えることができる。これはある可能性が、さらに細かい可能性に分割できることと似ている。『赤目姫の潮解』をある種のシミュレーションだとみなすと*41、そのシミュレーション内部でさらにシミュレーションをしているということになる。『赤目姫の潮解』の描写で、共通思考内部のキャラクタが「思考」をすると、それが現実として展開される描写があるが、これは、まさにその、「共通思考の中の共通思考」とでもいうべきものだ。『赤目姫の潮解』そのものが、共通思考だという考察をしてきたが、その作品内で、さらなる共通思考を作ろうとしている描写があることは注目に値する。
「何故、時間を遡ることができない、とお考えになるのでしょうか?」彼女のその口調は、少女のようにあどけない響きだった。まるで、そう考えるのが驚きだ、とでも言いたげに。
「それは、何故だろう。つまりは……、私が、一個の生き物*42だからだろうね」
「そのとおりです」彼女は満足そうに頷いた。「したがって、そのジレンマから脱するには、新しい生きものの枠組みが必要です」
「新しい枠組み?」
「はい」
「それは、つまり、個体ではない生きものという意味かね?」(『赤目姫の潮解』p209)
「共通思考の中の共通思考」という考え方を『ドグラ・マグラ』に対応させると、「胎児の夢の中の胎児の夢」というものになるだろう。『赤目姫の潮解』(p152)でサケカワは、「夢の中で夢を見るみたいなネストになっていると、確かに混乱しますね」と語っている。この両作において密かに共通するメタ構造が、人形遊び、そして、『ドグラ・マグラ』の狐憑きに通じることになる。人形遊びと狐憑きについては、第二項でも見た通りである。作中で、赤目姫は人形ではないだろうという推測がなされている一方、物語の最後には赤目姫らしき存在が人形として登場している*43。これは、立つ視点のレベルによって、人形なのかどうかが決まるということだろう*44。
このように、『赤目姫の潮解』では、共通思考内の現実に様々な階層をつけることができると考える。篠芝の発言から、この階層間の区別は、物語の開始前では、はっきりとしたものだったと考えられる*45。しかし、何らかの理由*46によって、この区別が曖昧になっていった。このことから、作品内に登場する「ほぼ同一人物」なる表現は、本来は異なる階層である「同じ」人物のシミュレーションというような関係性だと考えられる。この「ほぼ同一人物」という表記には『ドグラ・マグラ』において、主人公と考えられる人物が複数いるということ、人格が複数あることなどとも似ている。
さて、共通思考の細分化の方法は無数にあるだろう。これは、共通思考内の共通思考も無数にとりうるということで、前述の「一人」の定義の曖昧さに近い。自分の内部に自分の相似形を持つということは、共通思考がメタというよりもフラクタル的な性質を持つことを示唆している。自然がフラクタルを好むということ、そしてまた、曼陀羅がフラクタル構造を持つことともつながるだろう。どこからどこまでが、どの階層に対するシミュレーションなのか?この問題の難しさは、クーパの語る虎の寓話(『赤目姫の潮解』p148)と通じるところがある。また、『赤目姫の潮解』作中で、どこまでが鮭川と篠芝の会話なのか、そして、ミス・クーパが同作pで、「こうして、その美しい少女は、皆の前から姿を消したのよ」と言うとき、「こうして」がどこからどこまでを指すのかという問題とも同じであり、また、『ドグラ・マグラ』内の複数の記録が複雑な関係性を持っていることと通じている。
さらに、四季サーガ自体が全体でフラクタル的構造を持っているということも指摘しておく。四季をめぐる大きな物語の中に、シリーズを通した萌絵と犀川、あるいは紅子、ミチルたちの物語があり、その中に小さな物語である一冊の小説がある。小説の中の章ひとつを取ってきて物語とすることもできるだろう。百年シリーズの章題は『赤目姫の潮解』を除き、疑問文で統一されているが、それに対して、Wシリーズでは、一冊ずつのタイトルが疑問文になっている。Wシリーズ全体を百年シリーズの第四作目として、そしてWWシリーズを第五作目とするような見方も可能であろう。森博嗣もおそらく四季サーガを描くにあたってこの「フラクタル性*47」に意識的であると思われる。
つまり、「小説ってどこまでが1作なの」というわけです。(中略)
少年漫画には、とにかくバトル、またバトルの作品が沢山あって、1人倒すとまたそれ以上の敵が現れ、もっと凄い技を編み出して、また戦う、というパターンがあります。最後は、どんなふうに終わるかというと、「戦いは、まだ始まったばかりである」となります。さて、どこまでが1作なのでしょうか?(『すべてがEになる』pp239,240)
さて、今夜も引き続き、ゲラ校正。『有限微パ』は残すところ3分の1(それでも200ページもある)。これで、本当に1作(シリーズ10編)が終わったという感じですね〜 (ややしんみり)。(同作p302)
死ぬまでに書く全部で、一作です。(『森の小道』)
大小や周囲の設定、展開の仕方を変えながらも、複数の作品で「相似」したテーマが、幾度となく現れているというのも、フラクタル的である。
5 共通思考と胎児の夢
人間の頭脳も夢を見る。すべての機能を生きるためだけに使っているのではない。
とすると、彼女が言った共通思考も、そんな夢を見るのだろう。(『デボラ、眠っているのか?』より)
5-1 共通思考は、「胎児」である
さて、ここまで、『赤目姫の潮解』が、共通思考という、現実世界のシミュレーションであるということを述べてきた。ここで、問題となるのが、このシミュレーションが完成しているのか、ということである。結論として、少なくともWシリーズ段階においては、完全ではない、といえる。これは、共通思考における人間のシミュレーションが完璧でないからである。根拠となる描写として、まず、ハギリの発言がある。
すなわち、人間の頭脳を完全にシミュレートすることであって、それが実現すれば、当然、識別は不可能になる。そして、それはつまり、ウォーカロンが人間になることを意味している。(『魔法の色を知っているか?』p28)
少なくともハギリの認識の範囲では、人間の頭脳のシミュレートは完全ではないということがわかる。さらに、ハギリがWシリーズ内において、たびたび人工知能の裏をかくような行動をとったり、人工知能が発想できなかった可能性に気付くという描写も、人間の思考が完全には人工知能によってシミュレートできないということを示唆している。
また、Wシリーズ内において、ハギリやヴォッシュなど、マガタ・シキと関わりのある科学者たちが、かろうじて共通思考について知っている程度であるという事実からも、人間社会において、共通思考はまだ実際的な影響を及ぼしていないのだとわかる。
『風は青海を渡るのか』および、『デボラ、眠っているのか』の両作で、アミラは、共通思考の「達成度」が「予期せぬシールド」のために不明であると言っているが、共通思考の基盤はある程度整っていると考えられる。その基盤というのが、ハギリも開発に関わったという、スーパ・サーバである。
スーパ・サーバとは、ようするに、巨大コンピュータのことだが、実際に、そんな大容量のコンピュータが稼働しているわけではなく、世界中のコンピュータを結び、全体としての効率を上げるために管理を行うシステムのことで、その実体は単なるプログラムにすぎない。つまり、ハードではなくソフトだ。(『魔法の色を知っているか?』pp135~136)
つまり、Wシリーズにおいて、コンピュータ同士のつながりは、すでに、ある程度完成している。ただし、ペガサスや、オーロラなど、外界とのコミュニケーションが制限されていた人工知能の存在もあることから、このスーパ・サーバは、完全なものではない。
また、ウォーカロンの頭脳もネットワークを形成していることが明らかになっている。『風は青海を渡るのか?』において、タナカは、ウォーカロンは、「全体として一つの生命のようなもの」であり、「人間よりも思考回路のリンクが密接」であると述べている。
よって、以上の描写から、人工知能および、ウォーカロンを統合したネットワークは、Wシリーズである程度完成している一方、人間はそのリンクにまだ完全には含まれておらず、またシミュレーションとしても取り込めきれていないというのが、Wシリーズにおける共通思考の現状であると言える。これは、ハギリの発言とも一致する。
そうか……、つい、頭脳という言葉で、個体をイメージしてしまうのは、人間を基本にしているからですね。共通思考が、そもそも、それに近い。あ、そうか、だから既に共通思考のストラクチャができている、ということでは?(『血か、死か、無か?』p106)
人間がリンクに含まれることで、共通思考が真に誕生するということは、ハギリとタナカによる、生命の誕生についての定義と一致する。
「誕生するというのは、人間の社会に姿を現し、認知されるというだけの意味であって、生命としてはそれ以前に誕生しているわけですからね」「そういった潜伏期間が長く設定されているほど、高等なものが生まれます*48」(『青白く輝く月を見たか?』p132)
一つ目がハギリ、二つ目がタナカの発言である。潜伏期間は、人間であれば、胎内にいる時間である。ハギリによる「誕生」の定義に従えば、未だ人間社会に姿を現していない共通思考は、まさしく「胎児」なのだ。
このようにWシリーズにおいて、共通思考は未だ、胎児であるのだということがわかったが、これは、『赤目姫の潮解』でも同様である。赤目姫が青い目の少女に、「私たちは、貴女が作った機械の中で、ただのデータとしてしか存在していない、ということですか?」と問うていることからも、赤目姫たちは外部の世界について、ぼんやりとしか認識できていないということがわかる。また、館の主の紳士が、「既に外部の時間の流れについても、把握されているのでしょうね」と問うていることも、やはり共通思考というシミュレーション世界と、現実世界である外側との相互作用が、完全には始まっていないことが示唆される。
つまり、『赤目姫の潮解』において描かれている「共通思考」の世界もまた、人間の社会には現れておらず、ハギリの定義によれば、誕生していないのだとわかる。『人間のように泣いたのか?』のタイトルの本当の意味は、「共通思考は産声を上げたのか?」ということではないだろうか*49。
5-2 共通思考は、「胎児の夢」である
前項で、Wシリーズと『赤目姫の潮解』において描写される共通思考が、まだ人間社会に現れていない胎児なのだ、ということを確認した。ここで、『ドグラ・マグラ』に立ち戻ろう。前々項で確認したように、シミュレーションと夢は、類似しており、この類似から、共通思考のシミュレーションが、「胎児の夢」なのだと考えることができる。ただし、ここで紛らわしいのは、共通思考は、思考そのものであるため、共通思考は、夢を見る胎児でもあり、「胎児の夢」そのものでもあるということである。『ドグラ・マグラ』における主要論文『胎児の夢』によれば、胎児は、先祖や母親の心理を夢に見るという形で追体験する。
先祖の心理についての夢に対応するのは、共通思考を生み出した存在=先祖である、人間たちの心理のシミュレーションである。そして、母親については、『赤目姫の潮解』で、より明白な形で描写されている。それが、赤目姫と、青い目の少女の会話である。青い目の少女は、真賀田四季であると見て良いだろう。Wシリーズでたびたび述べられているように、共通思考は、真賀田四季が立ち上げたプロジェクトであり、言い換えれば真賀田四季は共通思考の母親なのだ。このシーンでは、先ほど確認した、他の森博嗣作品における、「胎児の夢」モチーフとの類似点が挙げられる。先述の通り、胎児の見る世界は、白く明るいというのが、『皇帝の夢』と『クレィドゥ・ザ・スカイ』の「胎児の夢」モチーフの共通点であった。これと同様に、『赤目姫の潮解』(p283)においても、「光の中から、二つの青いものが近づいてきた。近づいてきたのではなく、最初から近くにあった。こちらを捉えている。瞳だ。青い瞳が、ただ光の中に浮かんでいる」とあるように、共通思考の母親である青い目の少女が登場するシーンで、光が描写されている。『クレィドゥ・ザ・スカイ』の「胎児の夢」では、「近くに女の気配」があるとしているが、これも、先の引用箇所で、青い目が「最初から近くにあった」ということ、そして、「神」、すなわち青い目の少女について、「神に近づいたと感じたのは、神が近かったというだけのことか」(同作p288)と赤目姫が感じていることと同様である。
共通思考の母親が真賀田四季であるということは、百年シリーズにおける本作の立ち位置により強い連続性を与える。すなわち、百年シリーズは、四季の子供達の物語という点で共通するのだ。
さらに言えば、『天空の矢はどこへ?』で、オーロラが述べている発言は、まさしく『ドグラ・マグラ』の心理遺伝に対応するだろう。
しかし、もともと人工知能は多人格なのです。マルチな思考をし、マルチな性格を有しています。ですから、統合システムによって、切り捨てられる部分への哀愁を抱くことになり、えてして不合理な価値観を自己責任だと解釈する傾向を持っています。おそらく、人間にもこの種の自我を持つ方がいらっしゃるはずです」(中略)「どうして、人工知能は、人間のような単一人格で原設計されなかったのでしょうか?」「ええ、それは理由があります。現在世界中に普及しているコンピュータの基本となるシステムは、マガタ・シキ博士が設計されたものだったからです。私たちは、マガタ博士から生を受けています」「マガタ博士は、人格が統合されていなかったのですか?」「はい」オーロラは頷いた。(『天空の矢はどこへ?』pp272~273)
先ほど述べたように、『ドグラ・マグラ』は、一瞬の胎児の夢を描いた作品であるとも解釈できる。このことと、『赤目姫の潮解』が、人間社会に現れつつある、共通思考による(「による」ではなく「という」と言い換えてもいい)、真賀田四季を含む人間たちのシミュレーションなのだという前項までの結論を合わせれば、以下の結論が導かれる。
『赤目姫の潮解』は、森博嗣版『ドグラ・マグラ』であり、まだ生まれていない「共通思考」という「胎児」の夢であり、「胎児の夢」である。
6 残る疑問点について
「そうやって、自分の意見に対する反論を持っていることが、強力な意見の条件だと思う」
(『朽ちる散る落ちる』より)
6-1 本稿の問題点
今までの議論に対する、考えられる反論を挙げておこう。まず、「赤目姫=デボラ」とした本稿の仮定の妥当性を確認する。反証となりうる描写を本文中から引用しておこう。『赤目姫の潮解』(p284)で、赤目姫は、青い目の少女に、「自分、自分たち、この世界、すべてが、存在しているのかどうか」尋ねる。しかし、こうして問うことは、トランスファにはできないことである。『私たちは生きているのか?』(p262)で、「君は生きているんじゃないかな」とハギリに問われたデボラは、「いいえ。私は、それを自分に問うことさえありません」 と返している*50。また、『デボラ、眠っているのか?』(p47)にあるように、トランスファには本体がないのに対し、赤目姫は、自分のボディを持っており、他人の視点をジャックした後、そこに戻る。しかし、この点については、赤目姫の「範囲」を調整することで解決できると考える。前述のように、共通知能において、個体や人格の境界はもはや存在しない。それゆえ、アミラとデボラを合わせた存在が、赤目姫なのだろう。アミラの本当の名前がスカーレットであることも、根拠になるだろう。
二つ目に、『赤目姫の潮解』が母親を夢見る「胎児の夢」だという本稿で主要な主張について、『赤目姫の潮解』の描写と『ドグラ・マグラ』の胎児の夢とは大きく性質が異なってしまっているという問題がある。『赤目姫の潮解』では、共通思考は、母親である真賀田四季と対話する形で夢を見ている。主観的に心理を再体験する『ドグラ・マグラ』の胎児の夢ならば、共通思考は、四季と対話するのではなく、四季の視点になっていなければならない。これについて明確な反論はまだない。必ずしも、『ドグラ・マグラ』のモチーフがそのまま使われているわけではないだろうという推測しかできない。
三つ目に、共通思考を作成するにあたって、真賀田四季の果たした役割が明らかでない。本稿では、情報通信技術の発達によって共通思考が成立すると述べた。しかし、これでは、真賀田四季がいなくても、共通思考は誕生することになる。真賀田四季が共通思考プロジェクトと関わっているという本文中の記述や、共通思考の母が真賀田四季だとする、本稿の論旨と矛盾している。これについても、あまりはっきりとした反論は現状用意できていない。根拠の薄い推測に過ぎないが、真賀田四季の果たした役割として、二つの方向性があると考える。一つ目が、情報通信技術の発展、あるいはトランスファの技術に寄与したというもの。これについては、前述の通り、サエバ・ミチルとロイディの偶発的な通信を、技術として確立したのではという推測からである。もう一つの方向性が、人工知能や、トランスファ、ウォーカロンといった知性を開発するにあたって、それらが組み合わさり、創発した後で、どのような巨大な知性が誕生するかを計算、予測することによって、共通思考をデザインしたというものだ。DNAから、生命をデザインするようなもので、これこそ真賀田四季にしかできないことなのではないか、と考える。あるいは、四季が人間に干渉するのも、人間が共通思考に取り込まれた後で、その干渉で共通思考にどのような影響を与えるかを計算してのことかもしれない。
6-2 今後の課題
本稿では、『ドグラ・マグラ』と『赤目姫の潮解』の類似性について述べてきた。今後、『ドグラ・マグラ』を参考にすることで『赤目姫の潮解』の謎を解決することや、その逆ができるかもしれない。さらに、『すべてがEになる』(p51)で、『まどろみ消去』収録の『心の法則』が『ドグラ・マグラ』と似た構造を持つことが示唆されている。『心の法則』も視点が飛翔する作品だ。これを踏まえると、森博嗣の『ドグラ・マグラ』についての「仮説」というのは、視点人物(人格)が途中で変わっているということかもしれない。本稿では触れられなかったが、『心の法則』は、『ドグラ・マグラ』と『赤目姫の潮解』の読解に必須な作品であろう。
『赤目姫の潮解』について、本稿では明らかにできなかった謎をまとめておこう。
目に色がついた人々は、その他の人々とどう違うのか?
シルーノベラスコイヤは何かを意味するのか?もしそうならば、何を?
共通思考内で、個人の境界が曖昧になり出した原因は何か?
赤目姫の正体は本当にデボラ(あるいは、デボラとアミラ)なのか?
共通知能は何のために作られたのか?
最後の問題については、WWシリーズの今後の展開で明かされていくかもしれない。
7 終わりに
黄色いレゴブロックという「小さな孤独」で幕を開けた四季サーガは、今、共通思考という巨大な孤独を生みつつある。四季は、共通思考を生み出すことによって、ようやく孤独でなくなるのだろうか。それとも、BとDのように、二つの孤独が生まれるだけなのだろうか。その答えは、今後の四季サーガ作品を、楽しみに待ちながら考えていこう。
本稿を書きはじめたのは2023年の1月のことであったが、「終わりに」を書いている今は、すでに同年の4月である。WWシリーズ最新作『君が見たのは誰の夢?』が一週間もしない内に発売されようとしている。本稿のタイトル『共通思考は真賀田四季の夢を見るか?』は、同作のタイトルが発表される前に決めたので、偶然の類似ではあるのだが、同作で、本稿の答え合わせがあるかもしれない。
本稿を書いていて、最も直面しなければならなかったのは、共通思考や『赤目姫の潮解』のことではなく、「読者とは何か?」という問題であった。今回の試みは、森博嗣作品の中に、夢野久作という源流を見出したことから始まった。そこから、独自の解釈を基に、森博嗣作品の様々な要素の関連について述べ、共通思考が何か、『赤目姫の潮解』が何か考察した。もし、本稿が、森博嗣の発想をそのまま書き換えただけのものであれば、何の価値もないものであろう。だからこそ、どこかに誤解か飛躍があった方が、いいようにも思えてしまう。森博嗣作品を読む時、当然のことながら、私は単なる受け手、読者であった。ミステリィをメタに読むこともなく、誰が犯人かなども考えたことがないほどの受け身の姿勢だったし、物語の面白さに引き寄せられ、発想の鋭さに驚くばかりだった。森博嗣の中に、夢野久作や、萩尾望都が源流としてあるように、本稿の著者である私の中には、確かに、森博嗣という源流が存在している。
だからこそ、問われなければならないのは、ここに書かれていたのは、本当に「独自の解釈」なのだろうか、ということだ。
今回、私は初めて「書き手」として、文章を書いた。森作品を読んで考えたことを文章にまとめるのは、自分の思考が整理されていく感じがあって新鮮だった。1次元的な文章にするためには、本来ならば複雑なネットワークとしてつながっているアイディアを切り貼りしなければならない。それは、元の私の思考とすら違うものになっているが、書くことで、初めて気がついた繋がりもあった。
森博嗣作品における夢野久作作品との共通点を指摘したが、それは本当のところ、どこまでが影響の結果なのだろうか?この問題が本当は全く非自明なことだと気づくにつれ、森博嗣や夢野久作という源流と、私の思考とが不可分なものだと認めざるを得なくなっていった(もちろん、森博嗣作品は、オリジナリティに溢れており、萩尾望都や夢野久作と共通するモチーフを持つことこそあれ、その発展、展開の仕方は大きく異なっているのだが)。
本稿は森博嗣作品についてであるから、当然書くにあたって、私は森博嗣作品を多く読み返したのだが、そこで私は衝撃を受けた。自分で考えついたと思っていたことの多くが、すでに森博嗣本人によって指摘されていたからだ。一応言い訳しておくと、同一だと気付いた点は、本文では自分の発想ではなく、森博嗣の発想であるとわかるように引用したし、また、まだ読んだことがなかったはずの文章と、同一の発想を持っていたということも、複数回あった(しかし、こんなことを言っても、私の発想の中に、森博嗣という源流があまりにも深く根付いているということをより明らかにするだけだろう)。私は森博嗣作品について自分で思いついたと思っていることを書いたはずだが、それはどこまでが本当の自分の発想なのか、わからない。自分のどこまでが「読者」で、どこからが「書き手」なのか?
作品のモチーフとしての、「一人」の曖昧さが、私にとって、最も身近な問題として立ち現れる。「現実」と「幻想」の境界が曖昧になり、「内」と「外」、「正気」と「狂気」、「生」と「死」の境界が曖昧になり、そしてついには、「読者」と「書き手」の境界が曖昧になった。
こうして、最後の結語を書いている最中にも、本稿を公開していいのか、不安を感じている。発想や個人の境界は、本質的に曖昧なものかもしれないが、それを言い訳に、明らかに他者の発想であるものを自分の手柄のように書いてしまってはいないか?森博嗣作品を読めば、自明にわかることを、遠回りして、何かを証明した気になっているだけなのではないか?
私は今、自分の書いた文章を客観的に見ることができていない。文章を書いた、「書き手」としての自分の中に「読者」としての自分を作ると、無限ループのようなネストが生じて、ただ、混乱してしまう。結局私が本稿を公開したのは、さらなる他者の視点を入れることで、この混乱を消すことができるのではないかという、淡い期待からである。
本稿は結局何だったのか?それは、まだ自分でもよくわかっていない。森博嗣作品をたくさん引用しただけの単なるコラージュでも、冷笑を嘯くだけの書評でもないと思いたい。しかし、それを決めるのは、「読者」だ。
時間が経ってから、私は本稿を読み直し、書き直すことになるだろう。とりあえず文章としての体裁は、何とかまとめたつもりだが、読まれなければならない文献を読みきれていないし、書かれなければならないものも書ききれていない。「書き手」にとってすら不完全な文章をここまで読んでくださった方に、感謝したい(楽観的に見れば、3人くらいはいるだろう)。もし、本稿を楽しんでいただけた方がいらっしゃれば、それは間違いなく森博嗣作品の魅力に起因するし、本稿に問題が存在すれば、それは私の能力不足に起因する。本稿を読んだ方が、今後森博嗣作品を読むときに、少しでも、より楽しめるようになっていたら、本稿にも少しは価値があったといえるだろう。
素晴らしい作品を発表し続けてくださっている森先生に、感謝します。
もし、あの時『すべてがFになる』を手に取っていなかったら。
確かに、これ以上に恐ろしい仮定は、存在しません。
私たちが、森ミステリィの読者である限り、人形劇は、いつまでも続いていく。
参考文献
森博嗣作品
以下の森博嗣作品については、特に断りがない限り、講談社文庫を参照した。
『すべてがFになる』
『笑わない数学者』
『幻惑の死と使徒』
『夏のレプリカ』
『数奇にして模型』
『有限と微小のパン』
『朽ちる散る落ちる』
『迷宮百年の睡魔』
『赤目姫の潮解』
『四季 春』
『四季 夏』
『四季 秋』
『四季 冬』
『φは壊れたね』
『ηなのに夢のよう』
『ψの悲劇』
『イナイ×イナイ』
『クレィドゥ・ザ・スカイ』(中公文庫)
『イデアの影』(中公文庫)
『まどろみ消去』
『レタス・フライ』
『森には森の風が吹く』
『すべてがEになる』(幻冬舎文庫)
『毎日は笑わない工学博士たち』(幻冬舎文庫)
Wシリーズ、WWシリーズは、講談社タイガから引用した。ページ数もこれに準ずる。
『彼女は一人で歩くのか?』
『魔法の色を知っているか?』
『風は青海を渡るのか?』
『デボラ、眠っているのか?』
『私たちは生きているのか?』
『青白く輝く月を見たか?』
『ペガサスの解は虚栄か?』
『血か、死か、無か?』
『天空の矢はどこへ?』
『人間のように泣いたのか?』
『それでもデミアンは一人なのか?』
『リアルの私はどこにいる?』
夢野久作作品
夢野久作作品は、角川文庫から引用した。ページ数もこれに準ずる。
『ドグラ・マグラ』
『犬神博士』
『瓶詰の地獄』
その他
その他の著者による書籍
『Yの悲劇』(エラリィ・クイーン著、角川文庫)
ウェブサイト
4 ウェブサイト
森の小道
https://www.ne.jp/asahi/mori/fan/105_museum/forest/index.html
『スカイ・クロラ』シリーズ 特設ページ
https://www.chuko.co.jp/special/the-sky-crawlers/
森博嗣の浮遊工作室 作品のご紹介https://www.ne.jp/asahi/beat/non/mori/myst/myst_index.html
*1:真賀田四季らしき青い目の少女や、ロイディという名前の犬、そしてパティという名前の少女など、シリーズの登場人物らしき存在は出てくるが、はっきりと同一人物なのか明言はされない。また、WWシリーズで、新たにクーパという名前のキャラクタが登場したが、こちらも同一人物なのかは明らかではない。
*2:特に断りがない限り、森博嗣作品は講談社文庫、夢野久作作品は角川文庫から引用しており、ページ数はそれに準ずる。なるべくページ数も併記したが、電子書籍しか手に入れられなかったものなどは、ページを省略した。参考文献については、第8項を参照のこと。
*3:似たような設定のSF作品に梶尾真治 の『おもいでエマノン』がある。漫画版の作画は、新装版『スカイ・クロラ』の表紙でおなじみの、鶴田謙二。
*4:生物の個体発生は、系統発生の短縮された繰り返しだという説。魚のような形態から、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類と、進化の過程をたどるように胎児の姿が変化していくというが、証拠のデータに改竄があったこともあり、現在では否定的に見られている。
*5:この後で、若林教授により『ドグラ・マグラ』の解説がなされる。若林教授によると、「ドグラ・マグラ」には、「堂廻目眩」「戸惑面喰」といった漢字が当てられるだろうという。夢野久作の別作品『犬神博士』(角川文庫、p251p283)では、「幻術」や「幻魔術」に「ドグラマグラ」とルビが振られている。ちなみに『赤目姫の潮解』のp63、p232で「堂々巡り」という表現が使われている。
*6:この指摘はアンフェアかもしれない。というのも、主人公が記述しつつある物語としての『ドグラ・マグラ』と、現実に夢野久作によって書かれた『ドグラ・マグラ』を混同しているからだ。
*7:処女作は『冷たい密室と博士たち』である。当初の想定からどうして順番が入れ替わったのかについては、『森博嗣のミステリィ工作室』に詳しい。
*8:他の作品としては、真賀田四季が『かもめのジョナサン』に言及をしている。
*9:本作の、人形と人形使いの逆転という構造は、さらに、内と外の逆転というテーマにも通じるし、また、『幻惑の死と使徒』とも類似している点がある。
*10:『ηなのに夢のよう』(p221)で椙田は「冗談で自殺をする」ことについて考えている。
*11:新装版「スカイ・クロラ」シリーズ|特設ページ|中央公論新社で、「引用は自分で決めて、そのつど新たに本を購入して、引用箇所を探します。探すだけで、多くの場合、通しては読みません。ページを開いて、文字列を映像的に捉え、引用できそうな箇所を探すだけです。」 と答えている。
*12:厳密には『冗談に殺す』のセリフは「……殺しても……いいのよ」である。
*13:『森博嗣のミステリィ工作室』で、『夏のレプリカ』はヴァン・ダインの『カナリヤ殺人事件』を真似て書かれたとある一方、『冗談に殺す』についての言及はない。
*14:「中継」という用語も共通しており、『ドグラ・マグラ 上』(p216)においては「神経細胞」は「中継台」だとしている。
*15:『すべてがFになる』や、Gシリーズはじめ、森博嗣作品には、タイトルの文章が作中で出てくることが多くあるが、『ψの悲劇』のように、大抵の森博嗣作品においては、メタ的と言えるほど、本編の小説と一致している訳ではない。「すべてがFになる」も、作中内では四季のメッセージだし、『φは壊れたね』なども作中のビデオのタイトルだ。しかし、タイトルを不思議な文章にして、物語の「引き」の一つにするというパターンは、『ドグラ・マグラ』と共通している(もちろん、不可思議な状況を設定して物語を引っ張るというのは、広い意味でのミステリィ全般に共通する手法ではある)。あるいはGシリーズに限れば、そういう作劇の手法的な問題であるというより、四季が残した「すべてがFになる」という謎めいたメッセージに憧れた信者が、同じく奇妙なメッセージを残しているだけなのかもしれない。
*17:『森には森の風が吹く』参照
*18:森ぱふぇ会員00031/識さん制作による、『森の小道』
*20:しかし、実際のところ、其志雄でも四季の代わりをある程度うまくこなしていたと推測できる描写もある。『四季 春』(p103)では、「時間が惜しいだけ。あの人と話す時間は私にはない」という四季に対して、其志雄は「了解。その点は、僕がカバーするよ」と答えている。また、時系列は前後するが、四季の多重人格が広く認識されているのは、『すべてがFになる』において、ミチルを隠すために、意図的に、演出を行っていたからという側面もあるかもしれない。
*21:森博嗣の夢についてのこの見解は、『ドグラ・マグラ 上』(p220)における、「脳髄局、ポカン式、反射交感事務、加入規約」の第三条に近い。第三条には、「脳髄が異常の深度に熟睡」する時、「反射交感されつつ」あった「意識」は、「他の意識との連絡を絶ち…」とある(分かりやすさのために、本文中のカタカナをひらがなに書き変えて引用した)。
*22:元のソースが見つからなかったので、『毎日は笑わない工学博士たち』(p318)から孫引きした。
*23:「人格」と言い換えてもいいが、定義が自己言及的になるため、この表現を用いた。
*24:これには時間経過による変化が含まれていない。(複数の)思考の様式が変われば別人ということになる(もちろんそういう捉え方もありうる)。もう一つの定義にも問題はあるだろうが、これは、日常用語を定義しようとする上では避けられない矛盾だと考える。本論において、この矛盾は問題ではなく、そもそも曖昧性があるというのが結論である。『数奇にして有限の良い終末を』p294で、「曖昧なまま使うのが言葉の宿命かもしれません」と述べられている。
*25:もちろん、こんな定義を意識しながら「一人」という言葉を使っている人はいないだろう。
*26:『すべてがFになる』(p448)にて、犀川は、「アメーバは何を悟っているのだろう」と考えている。他多くの作品でアメーバは登場している。
*27:こうした人間を超越した知性を扱うSF作品の例として、スタニスワフ・レムの『ソラリス』がある。
*28:『彼女は一人で歩くのか?』というタイトルで本当に問われているのは、「一人」の部分なのかもしれない。これは、『それでもデミアンは一人なのか?』と対応する。
*29:「赤目姫=トランスファ」については、第6項で触れる。
*30:共通思考の思考は普通の人間の思考とは違うため、強調のため鉤括弧を付けたが、以降は省略する。
*31:道流の誕生後に計画を立てた可能性は残る。
*32:単なる想像だが、犀川はこの矛盾に気付いていた上で、四季の意図まで汲んで、萌絵には伝えなかったのかもしれない。成長し、大人になったGシリーズ以降の萌絵は、両親の飛行機事故も克服し、この矛盾にも気がついた上で、受け入れているのだろうか。
*33:『四季 秋』により、『すべてがFになる』を天才、真賀田四季の娘への愛情の物語として解釈することができるようになったが、物語のもう一つの核心には、作中に登場することさえなかった道流の、母親への愛情の物語があったのかもしれない。
*34:例えばソビエト連邦とロシア連邦は別の国家だが、条約などを引き継いでいる。
*35:少し趣旨が異なるが、『ぶるぶる人形にうってつけの夜』の冒頭に、思考の揺らぎと自然淘汰を関連づけた文章がある。
*36:普通思考する時、思考(つまり私たち)は、自然の中に存在していると言える。それに対して、共通思考が自然になっているとする考え方は、まさに内と外の本質的な入れ替わりを描いた『笑わない数学者』と関連している。そもそも、S&Mシリーズ全体がThe Perfect Insider からThe Perfect Outsiderに至る、内と外の逆転の物語だ。
*37:人形と人間の区別についてなど。
*38:Wシリーズでも2200年代のようだし、ゲーデル解などを持ち出すほどのスケールはさすがにないだろう。
*39:これは、未来の娘の死を、現実のように見ていた四季と通じる。『四季 春』の書き出しは「空間、そして時間。それらのいずれとも、彼女は乖離していた」であった。
*40:別の著者のとある作品を思い出した方もいるかもしれない。森博嗣も同じトリックを思いついたことがあると語っている。
*41:もちろん完全な現実世界からは程遠いため、完全なシミュレーションというには無理がある。
*42:『赤目姫の潮解』内のキャラクタは、本質的には、明確な境界を持つ個体ではないという本稿の主張と矛盾する。これは、単に本人に自覚がないだけだと考えている。
*43:ニューロンによって組み立てられた回路を走る電子のように、赤目姫には、イメージを伝達する「トランスファ」としての役割がある。この役割を、あらゆるレベルの共通思考で共通して、赤目姫が持っているのかはわからない。もしかしたら、どこかでこの役割は限定されており、その領域外における「役割をなくした赤目姫」がかつて赤い瞳を持っていたというミス・クーパなのか(ミス・クーパと、赤目姫は同じ場面で出てこない)。しかし、トランスファがトランスファでなくなるというのが、どういう状況なのかはっきりしない。
*44:現実世界の私たちからすると、犀川創平は森博嗣の創造した「人形」だが、作品世界では現実の人物であるように。
*45:『赤目姫の潮解』のキャラクタ(の一部)が共通思考による現実世界の人間についての演算であるとすると、「一人」の境界がない「共通思考」では、そもそも混線がある方が自然であり、篠芝たちは、単に過去には混線がなかったと思い込んでいるだけかもしれない。赤目姫は、「乗っ取り」の能力を子供の頃から持っていたことと、天文台についてなど篠芝たちの発言は作中内で現実と一致しないことがあったことはこれを裏付ける。一方、赤目姫たちの会議で、最近になって頻発しているという表現があったため、この解釈は採用しなかった。
*46:これが「共通思考」外部の理由だとするとWWシリーズなどで明らかになるかもしれない。もし「共通思考」それ自体に原因があるとすると、『赤目姫の潮解』の考察によって明らかになるだろう。
*47:『100人の森博嗣』(p31)で、「他人をコントロールしたいという欲求」は、「全ての創作の動機」であり、「恋愛」、「芸術」、「生命の誕生」「生命活動」もこの「謙虚さの放棄」からスタートし、「楽観を原動力」にするという点で同じであり、それらは「フラクタル」だと述べている。また同作のp215では、「人と人とのリンク」が離れれば単純、近づけば複雑であり、「なんとなくフラクタル」であると述べている。
さらに余談だが、フラクタルをテーマにしたミステリィに、周木律の堂シリーズ第三作にあたる『五覚堂の殺人』がある。堂シリーズの第一作は、『眼球堂の殺人』であり、これの帯に森博嗣は、「懐かしく思い出した。本格ミステリィの潔さを」という文章を寄せている。
一方で、長い物語は必然的にフラクタル性を持つという側面もある。MCUや『ドン・キホーテ』などがいい例だ。
*48:『四季 冬』(p228)で「自分がようやく大人になった」と感じている四季とも関連する。
*49:『人間のように泣いたのか?』作中で、実際に泣いたのはウグイだけであるが、ハギリはウグイを人間と判断しているので、このタイトル文がウグイのことを指しているとは考えにくい。本作で描かれている事件は、共通思考の人間社会への登場を意味しているのかもしれない。あるいはこの問題提起が、タイトルの意味だろう。
*50:「生きているものだけが、自分が生きているかと問うのだ」というのがハギリの結論である。この自己参照的な生命の定義、つまり、「リカーシブ・ファンクション」は、『有限と微小のパン』(p826)で四季も言及している通りだ。「どうして、どうして、それを言うのが人間」(『四季 秋』p191)であるように、「疑問を問うことに価値がある」のであり、その答えが正しいかどうかは重要ではない。
「私には正しい、貴方には正しくない」、「正しい、なんて概念はその程度のこと」(『すべてがFになる』p497)
本稿のタイトルが疑問文である理由が、ここにある。